カンボジア王国(アンコール・ワット)
アンコール・ワット
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シェムリアップから北へ7kほどにあるアンコール・ワット。
幅200m、一辺1.5kもある外堀に囲まれた環濠寺院。
西側の外堀からの風景。
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外堀の内側に沿って回廊が取り囲む。
回廊の所々に建つ館。
外堀に下りるための階段がある。
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外堀に架かる土手道の陸橋を東へ進むとゴープラと呼ばれる塔門が建つ。
西側から西塔門へ向かう。
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西塔門の内部に安置されていたヴィシュヌ神の像。
ヴィシュヌはヒンドゥー教の神で、アンコール・ワットはヴィシュヌを奉る寺院。
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西塔門辺りから回廊の南方向の風景。
アンコール遺跡群の残るこの地はクメール王朝が支配していた。
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西塔門の南北に塔が建つ。
西塔門から北の方向の風景。
クメール王朝は東南アジアの民族、クメール人によって6世紀に建国された真臘、チャンラ王国をルーツとする。
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西塔門をくぐり、東へ行く。
300mほどの参道が続く。
クメール王朝はジャヤーヴァルマン2世が即位した9世紀初頭を王朝建国とされる。
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アンコール・ワットの代表的な建造物、中央祠堂とその横に並び立つ祠堂。
アンコール・ワットはクメール王朝18代国王スーリヤヴァルマン2世によって12世紀初頭にヒンドゥー教の寺院として建立が始まる。
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中央祠堂と芝生が広がる前庭の風景。
白馬が草を食んでいた。
アンコール・ワットのアンコールは王の都、ワットは寺院の意味。
スーリヤヴァルマン2世の代では完成せず、後30年以上の歳月が費やされた。
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アンコール・ワット風景で有名な聖池に映る寺院。
アンコールの王都は12世紀中頃、現在のベトナム南部を支配していたチャンパ王国に征服される。
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聖池で水草を刈り取る人達。
聖池は参道を挟み南北に一つづつある。
12世紀終わり、ジャヤーヴァルマン7世はクメール軍を率いてチャンパ軍と戦い、勝利する。
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参道から第一回廊の風景。
アンコール王都奪還後、ジャヤーヴァルマン7世は王位に就き、荒廃した町を復興、首都アンコール・トムを築く、など国家再建に取り掛かる。
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南の聖池の西に建つ、前庭南経蔵。
都市復興後のジャヤーヴァルマン7世による治世時代はクメール王朝の最も栄えた時代で、この時代を特にアンコール王朝とも呼ぶ。
アンコール・ワット
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アンコール・ワットの魅力は建物だけでは無く、至る所の壁に残る美しい壁画、レリーフだ。
第一回廊の壁に残るレリーフが南北50mも続く。
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第一回廊を過ぎ、第二回廊へ上る。
たくさんの寺院を中心に発展した宗教都市アンコールはジャヤーヴァルマン7世が築いた壮大なる帝都となる。
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ジャヤーヴァルマン7世の死後、クメール王朝は衰退していく。
これはジャヤーヴァルマン7世の治世の間、数多くの寺院が建てられ、その多大な費用と労力が衰退化を進めたと言う。
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第三回廊の階段。
階段はデコボコで、急斜面だったため、上るのが大変だった。
14世紀末期からタイ族の王朝、アユタヤの侵攻にさらされ、国力は更に弱体化し、民衆や兵士たちは疲弊していく。
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第三回廊から第二回廊の風景。
15世紀中頃、アユタヤ軍に屈し、クメール王朝の首都アンコール・トムは陥落、王朝は滅亡する。
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中央祠堂は一際高く、65mもの高さがある。
王都はプノンペンに遷都され、アンコールの地は放棄され荒廃し、密林に覆われていった。
19世紀中頃に再発見されるまで長い間忘れ去られていた。
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第三回廊から第二回廊の風景。
シアヌーク殿下の名で知られるノロドム・シアヌークが初代国王となった旧カンボジア王国は1970年、クーデターにより消滅、カンボジア内戦が始まる。
その後、ポル・ポト率いるクメール・ルージュが実権を握り、内戦は激化。
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第三回廊と祠堂の風景。
ポル・ポトによる一般市民への大量虐殺もあり、カンボジアは人口の3割を失った。
ポル・ポト派は宗教を否定し、アンコールの寺院にあった仏像や壁画などは破壊された。
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第三回廊と祠堂の風景。
ポル・ポト派の末期、追われたポル・ポトはアンコール・ワットに籠城する。
ここは周囲を環濠と砦の様な石壁に囲まれて城塞の様な機能を持ったため。
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アンコール・ワットを背景に筆者近影。
ポル・ポト派との戦いで多くの寺院は破壊された。
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早朝のアンコール・ワット風景。
逆光に浮かぶシルエットが美しい。
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聖池に映る逆さアンコール・ワット。
アンコール遺跡群の残るこの地はとても暑い。
夏はとても観光できないとの事だったので、年末の冬を選んだ。
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年末の時期でもとても暑く、昼は地元も人も外出を控えるほど。
観光は朝と夕方に絞り、日中はホテルで昼寝。
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西塔門近くに設営されていた舞台で楽器を練習する子供達。
ポル・ポト派によってアンコール遺跡群の周囲に地雷がたくさん仕掛けられ、筆者が訪れた時はまだ道を外れた所にドクロ・マークの危険看板が立っていたほどだ。
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民族舞踊の出し物でもあるのだろう、西塔門近くに設営されていた舞台で楽器を練習する子供達。
日本の雅楽で見かける笙の様な楽器を手に踊りを練習していた。
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外堀で水浴びする人達。
戦下のカンボジアで凶弾に倒れた名高い日本の戦場カメラマンが二人いる。一人は沢田教一、銃弾が飛び交う中を逃げる母子の写真、安全への逃避が知られる。もう一人は一ノ瀬泰造、ポル・ポト派支配のアンコール・ワットへ潜入し、拉致され処刑された。死後出版された、地雷を踏んだらサヨウナラで知られる。
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ここは外堀に面して造られた沐浴場。
筆者の訪問当時はアンコール遺跡群は崩壊の危機にあり、ユネスコ世界遺産でも危機にさらされている世界遺産リストにリストアップされ、現地でも観光するのは今のうち、とささやかれていた。
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暑い昼下がり、広い外堀で水浴びする人達。
暑い中、気持ちよさそう。
近年、カンボジア国内の情勢も安定し、日本を始め各国が修復支援を行なった。
遺跡周囲に埋められた地雷の撤去も進み、危機遺産から外された。
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外堀なので水は濁っているのかと思えば、結構きれいな水で、腰辺りまでの透明度があった。
アンコール・ワットはアンコール・トムや他のアンコール遺跡群などと共にユネスコ世界文化遺産に登録されている。