中華人民共和国(玉門関)
玉門関
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ここは玉門関。
敦煌市内から北西へ100k、果てしなく広がるゴビ砂漠の道を進むと見えてくる。
玉門関
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泥土を固め、積み上げた四角い箱の様な形をしている。
シルクロード上の関所である。
玉門関
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玉門関は城塞でもある。
アーチ状の穴は城門の入り口。
玉門関
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漢の武帝が河西回廊を支配すると、ここを河西回廊を守る防衛の要と位置づけ、軍事拠点として南にある陽関と共に建設された。
玉門関
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玉門関の中に入ってみました。
天井は抜け落ち、崩れ去っている。
玉門関
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玉門関を出て北西へ向かい、トルファンを経て天山山脈の北側へ至るルートが、シルクロードでの天山北路、天山山脈の南側へ至るルートが天山南路となる。
玉門関
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碑板が建つ。
小方盤城とあり、現在、玉門関は通称で小方盤城と呼ばれている。
玉門関
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玉門関から見た、周辺の風景。
周囲には朽ちてはいるが、泥土で造られたと思われる遺跡がいくつも残る。
玉門関
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玉門関は最初に建設されたのは漢の武帝の時代。
現在残るのは唐の時代の物。
玉門関
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シルクロードの交易や軍事上の要衝として重要な地となり、それ故、この地を巡って多くの王国・民族との攻防が繰り返された。
玉門関
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玉門関はシルクロード:長安-天山回廊の交易路網の一つとしてユネスコ世界文化遺産に登録されている。
漢代の長城
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玉門関から、さほど遠くない所に土のうを積み重ねた様な壁が連なっている。
2000年経って今に残る漢代の長城跡である。
漢代の長城
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今は2~3m程の高さだが、当時は6m程度であった。
北方騎馬民族匈奴の侵入を防ぐ事が目的だったが、この高さと言うのは、匈奴が食料として連れている羊や山羊が飛び越えられない高さであれば、その目的は達した。
漢代の長城
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泥土で造られた長城はワラを挟む層構造で積み重ねられ、非常に頑丈な建造物だった。
漢代の長城
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長城跡に残る烽火台。
長城に沿って建てられた。
烽火台はのろしを上げる高台で、敵の襲来を伝えるのが目的。
漢代の長城
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のろしは狼煙と書き、狼の糞を燃やしたのが語源と言う。
様々な燃やす物を変える事によって、白や黒などの煙の色を組み合わせて情報としていた。
漢代の長城
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長城の総延長は150kに及ぶが、多くは風化し、ゴビの砂漠に消えている。
漢代の長城
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ここ玉門関近くの長城は比較的保存状態が良く、玉門関と併せて観光する人が多い。
蜃気楼