中華人民共和国(陽関)
陽関博物館
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ここは陽関。
敦煌市内から南西へ70kにある。
入り口のゲートの風景。
陽関博物館
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これらの建造物は近年、復元された物で、一帯は陽関博物館としてテーマパークとなっている。
陽関博物館
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博物館に復元されている城壁。
外壁には攻撃用の兵器、投石機や破城槌、矢投射機などの模型が映画のセットの様に野外展示されていた。
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復元された城壁にある隅櫓。
これから城門をくぐり、館内へ入ります。
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広場に建つのは張騫(ちょうけん)の騎馬像。
秦の時代、西域に月氏王国があったが、北方騎馬民族匈奴に敗れ西へ逃れた。
漢の時代に入り、武帝は匈奴征伐のため、月氏に対匈奴の同盟を持ち掛ける使者を募っていた。
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張騫は、我こそが適任、と名乗り出て100人程の手下と共に西へ向かった。
張騫の旅は苦難の道のりとなり、途中匈奴に捕えられ、十余年束縛された。
その後、脱走した張騫は月氏にたどり着き、漢との同盟を説いた。
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しかし、時代は移り月氏は匈奴とは、もはや敵対しておらず、漢と同盟を結ぶ意志は無かった。
長い年月が経ち、手下を失い、失意の中で漢へ戻った張騫の一行は2人となっていた。
使命には失敗したが、西域の詳細な情報を得た武帝は喜んだ。
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張騫の話に、西方には素晴らしい馬がいます。走る様は天駆ける如く。流す汗は血の如く。祖先は「天馬」と伝えられます。
血の汗をかく馬「汗血馬」と聞いて武帝は狂喜した。
漢の馬は匈奴の馬に比べ、足も遅く背も低く、戦力では甚だしく劣るため、勝つための強い軍馬を欲していたのである。
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奥へと向かうと展示館がある。
特に貴重な物は展示されてはいなかったが、シルクロード関係の品々が陳列されていた。
陽関博物館
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復元された城門。
陽関は漢の時代、北にある玉門関と併せて設置された、関所でもあった城塞跡。
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城門をくぐります。
漢代の城壁はこの様な石造りでは無く、泥土で造られた防塁だったとされている。
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唐の時代の詩人、王維(おうい)の石像が建ち、傍に西域へ向かう友人を見送った時の詩の碑文があった。
「渭城(西安にある城)に降る朝雨は細かな塵を潤し、宿の柳は青々と色を甦らせる。君に勧めよう、更なる一杯の酒。西へ向かいて陽関の関を出てしまえば、そこには古くからの友人は誰もいないのだから。」
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ここから電動カートに乗り、写真の左に見える、少し離れた所の小高い丘の上にポツンと残る烽火台跡へ向かいます。
烽火台跡
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漢代の烽火台跡。
陽関の遺跡では、現在まで残っている建造物はこの烽火台跡だけ。
烽火台跡
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烽火台は数キロから、見通しの良い所では十数キロごとに建てられていた。
現在、そのほとんどが砂漠の土に戻っている。
烽火台跡
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烽火台に灯されたのろしは、隣ののろしへと次々に伝えられ、2000kもの先の長安の都には半日余りで届いたと言う。
烽火台跡
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敦煌周辺に残る烽火台跡の中では、この陽関の烽火台が最も大きく、保存状態もまだ良い。
陽関の耳目と呼ばれている。
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復元された回廊。
烽火台跡のそばに建てられていた。
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回廊の中ほどに建つ楼閣。
陽関を出て西へ向かい、古代楼蘭(ろうらん)王国を経てタクラマカン砂漠の南、崑崙(こんろん)山脈の北を進むルートが、シルクロードでの西域南道となる。
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烽火台跡のそばに復元されていた東屋。
この東屋からは砂漠の中に建つ陽関の風景を含め、360度のパノラマを見る事ができる。
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東屋からの風景。
漢の時代、この辺りにはオアシスが有り、多くの兵士たちが詰めていた。
今は砂漠の中に溜池らしい水たまりが残るだけ。
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写真の様な風景からは、法顕(ほっけん)の残した仏国記の一文が甦る。
法顕は玄奘三蔵と並び、西域を経てインドへ渡った高僧。
彼は敦煌から西域南道への行程の中で、余りに過酷な砂漠の旅を「空に飛ぶ鳥無く、地に走る獣無し。旅人のしかばねを以て道しるべとなす。」と記している。
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東屋からの回廊の風景。
陽関は玉門関より南に位置し、併せて「二関」と称された。
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