中華人民共和国(吉林省)
長春駅到着
1/55
吉林省の旅は長春を観光します。
中国版新幹線、高速鉄道で長春駅へ到着です。
長春駅
2/55
旧満州国時代は新京駅と呼ばれた。
市内風景
3/55
高いビルが立ち並ぶ長春市内の風景。
長春は吉林省の省都。
市内風景
4/55
市内を走る路面電車、トラムの長春有軌電車。
鉄道開業は満洲国時代の1940年。
ホテルからの風景
5/55
ホテルの部屋からの市内風景。
直ぐ前を川が流れる。
市内を流れる伊通河。
伊通河
6/55
伊通河は凍っていた。
筆者が訪れたのは12月中旬。
日中でも氷点下8度、夜は氷点下15度まで下がった。
市内夜景
7/55
バスの車窓から市内の夜景です。
かつて満洲国の時代、長春は首都と定められ、新京と呼ばれた。
市内夜景
8/55
通りの街路樹は緑や紫にライトアップされて、とても綺麗だった。
吉林省公安庁
9/55
通りに面して吉林省公安庁の建物があった。
公安庁とは中国の警察組織、中華人民共和国公安部の公安警察地方機関の事。
中国共産党吉林省委員会
10/55
日本のお城の天守閣の様な建物は中国共産党吉林省委員会で、旧満州国時代の日本陸軍関東軍司令部跡。
吉林大学白求恩第一医院
11/55
吉林大学白求恩医学部の付属病院。
吉林大学は中国でも権威ある総合大学16校の一つで、中国最大規模を誇る。
校舎のいくつかは旧満州国時代の建物を使用しており、ここは旧軍事部の建物。
旧満州国国務院
12/55
旧満州国の行政機関で最高機関。
満州国の皇帝、愛新覚羅溥儀の直属の組織であるはずだったが、関東軍が支配しており溥儀は発言権が無かったと言う。
旧満州国国務院
13/55
旧満州国国務院のプレート。
現在は吉林大学白求恩医学部の校舎になっている。
旧満州国国務院
14/55
筆者コレクションの満州国切手に描かれた満州国国務院。
満州国切手は満洲国郵政が発行した切手。
ホテルからの風景
15/55
ホテルの部屋からの伊通河と市内の夜景。
満州国皇宮
16/55
長春観光のハイライト、満州国皇宮。
映画ラストエンペラーで知られる愛新覚羅溥儀の満州国時代に居住した宮殿跡。
ここは入場券売り場近くの菜薫門。
満州国皇宮
17/55
菜薫門のそばに置かれたプレート。
偽満州国とある。
中国は旧満州国を認めていないため、偽を付けている。
満州国皇宮
18/55
菜薫門内側から市内方向の風景。
市内の少し北に位置し、周りは静かな所。
ここにはわずか13年間の国家、満州国とその皇帝、愛新覚羅溥儀の歴史が詰まっている。
満州国皇宮
19/55
菜薫門から北へ行くと御膳餐庁がある。
今はレストランになっている様で、屋根看板には御膳房とあった。
満州国皇宮
20/55
御膳餐庁から東へ行くと同徳門がある。
明を滅ぼした清王朝。
その末期、実権を握っていた稀代の悪女、西太后は光緒帝の後継者として次の第12代清王朝皇帝に宣統帝を擁立し、死去した。
その宣統帝こそ愛新覚羅溥儀であり、僅か2歳10ヶ月だった。
満州国皇宮
21/55
偽満州国皇宮の石碑。
溥儀は清王朝の首都、北京の紫禁城で暮らすも、4年後辛亥革命が起こり清は倒され、新しく中華民国が誕生した。
満州国皇宮
22/55
皇宮内の案内図。
満州国皇宮は修復され、現在は偽満皇宮博物院として一般に公開されている。
緝熙楼
23/55
皇宮内は大きく内廷と外廷があり、ここ緝熙楼は溥儀や家族の暮らした内廷の一つ。
溥儀は皇帝を退いた後も特別な優遇を受け、外国元首と同等の待遇や引き続き紫禁城での居住を許された。
緝熙楼
24/55
溥儀の書斎。
溥儀は結婚し皇后に婉容を、側室に淑妃、文繍を迎え穏やかな日々の暮らしを楽しんでいた。
しかし中華民国国内の政情は安定せず、内乱の戦闘は激化して行く。
緝熙楼
25/55
溥儀の寝室。
やがてクーデターの北京政変が勃発、溥儀に対する優遇措置は破棄しされ紫禁城から追い出された。
溥儀はイギリスやオランダを頼り、上海租界、天津租界の公館へ庇護を求めたが断られた。
緝熙楼
26/55
溥儀の側室、譚玉齢の応接間。
元々の部屋は溥儀のダイニングルームで、後に応接間に改装した。
緝熙楼
27/55
側室の祥貴人、譚玉齢の寝室。
譚玉齢は17歳で溥儀の側室となり、寵愛を受けたが5年後、22歳で早世してしまう。
溥儀は、この死は関東軍による毒殺と信じていた。
緝熙楼
28/55
仏堂。溥儀は仏教を信仰しており、仏堂の間を作らせ仏像を安置していた。
窮地に陥っていた溥儀に手を差し伸べ、近づいて行ったのが満州への進出の機会を伺っていた大日本帝国であり帝国陸軍の関東軍だった。
溥儀は日本の庇護を受け、天津の日本租界へ移り住んだ。
緝熙楼
29/55
緝熙楼の階段。
日清、日露、第一次大戦とますます軍事増強、軍国主義に傾倒して行った大日本帝国は関東軍による南満州支配だけで無く、満州全域の支配を企んでいた。
やがて関東軍による暴走が始まる。
緝熙楼
30/55
緝熙楼内にある展示室。
溥儀の撮った写真が沢山残っていた。
これは溥儀はカメラが好きで、自分や家族、皇宮に住む人達を撮影したため。
中和門
31/55
緝熙楼を出て北へ行くと中和門がある。
この北側は外廷にあたる勤民楼へ至る。
中和門からの風景
32/55
中和門前から東側の風景。
正面、薄茶色の屋根は後述する同徳殿。
中和門からの風景
33/55
中和門前から西側にある西御花園方向の風景。
関東軍は刃向う勢力の指導者暗殺や満州鉄道線路爆破を中国軍の仕業に見せかけ決行、これを報復の口実に軍事行動を起こす。
満州事変である。
勤民楼
34/55
中和門をくぐり、北へ行くと勤民楼がある。
勤民楼は外廷にあたり、溥儀が政務や公務、式典、会見の場として使っていた。
関東軍は占領した満州一帯に新しい国家建国を画策する。
勤民楼
35/55
勤民楼に向かって右、東側に立つ日本憲兵室。
皇帝溥儀の警護のため、憲兵が数名詰めていた所。
しかし、その実態は溥儀を監視し、関東軍に報告するのが目的だった。
勤民楼
36/55
勤民殿と満州国皇帝玉座。
溥儀が即位式典などの儀式が行われた場所。
玉座の背には満州国国章の蘭花御紋徽が描かれている。
勤民楼
37/55
勤民殿の皇帝玉座前にあるスペースにはロープで囲まれた机と椅子があった。
ここで日満議定書の調印が行われた。
日満議定書とは大日本帝国と満州国との間で交わされた満州国承認の議定書で、満州国を日本の属国、傀儡国家にするにあたって正当化するための不平等条約の事。
勤民楼
38/55
西便殿。溥儀が政務を執り行った部屋。
関東軍は国際社会からの批判をかわし、国家を正当化するため溥儀を利用し国家元首に就かせようとした。
勤民楼
39/55
勤民楼は中央に中庭を配し、周囲を建物で囲う中国様式の建物で、中庭には一本の木が植えられていた。
溥儀は中庭の風景が好きで、よく眺めていたと言う。
勤民楼
40/55
佛堂。沢山の仏像が置かれている御堂で、溥儀の祖先を祭っている。
溥儀もまた、紫禁城と皇帝の地位を失ってから再び清朝を再興し、その位に就く事を願っており、両者の利害は一致した。
かくして現在の長春である新京を首都とする満洲国建国となる。
同徳殿
41/55
勤民楼から中和門を出て東へ行くと同徳殿がある。
満州国時代中期に関東軍が溥儀とその家族のために建てた宮殿。
しかし、関東軍から監視されていた溥儀は会話を盗聴される事を恐れ、ほとんど利用しなかった。
同徳殿
42/55
叩拝間。中央に謁見の間の玉座がある。
ただ満州国を承認する国は少なかったため外交儀礼はほとんど無く、ここでは溥儀の誕生日の祝賀と元旦に役人達からの朝拝だけだった。
同徳殿
43/55
便見室。溥儀が関東軍司令官や満州国総理らと接見した部屋。
建国された満洲国の実態は関東軍による実効支配で、溥儀は傀儡の皇帝であった。
同徳殿
44/55
中国間。中国様式の部屋で、溥儀の休憩室、談話室、家具・調度品は全て中国式。
関東軍の満州国への介入は続き、やがて溥儀は溥儀自身の満洲国における力と価値の無い事に気付く。
同徳殿
45/55
李玉琴客庁。3番目の側室の福貴人、李玉琴の部屋。
元は皇后、婉容の部屋だったが婉容は使わなかった。
溥儀は度々李玉琴と談話するため訪れたが、関東軍の盗聴を避けるため筆談だったと言う。
同徳殿
46/55
同徳殿内の廊下。
やがて日本は日中戦争から第二次大戦へと戦争に突き進んで行った。
ソ連軍の満州侵攻が始まると溥儀らは新京を放棄して逃走、日本降伏を受け満州国消滅と皇帝の退位を自ら宣言した。
同徳殿
47/55
同徳殿広場。長方形に長い、二階まで吹き抜けになっているホール。
舞踏会もできる様になっているが、溥儀は好きではなかったので開かれなかった。
同徳殿
48/55
電影庁。映画を見るための部屋で、いわゆるホームシアター。
与えられた映画は日本が用意した物で、関東軍の政治的思想や日本の軍事行動を美化した内容だった。
興運門
49/55
満州国皇宮の出口、ライトアップされた興運門の夜景。
上部には満州国紋章、蘭花御紋徽が描かれている。
蘭花とあるが、ランの花では無い。
フジバカマの図案化したもの。
菜薫門
50/55
最初の入場券売り場のある菜薫門の夜景。
日本への亡命を実行しようとした直前、ソ連軍に捕えられた溥儀はソ連の強制収容所や中国国内の収容所を転々とした後、恩赦で釈放された。その後、一般市民として北京植物園での庭師や文史資料研究活動、政協全国委員などを務めた。晩年は病に侵され、61歳でこの世を去った。
愛新覚羅溥儀
51/55
筆者が持っている満州国切手に描かれた溥儀。
溥儀は満州国皇帝時代に2度来日しており、東京駅に到着した際、昭和天皇自らが迎え、握手をされた。
また溥儀は病気を患っていた晩年、食べたいものとして日清のチキンラーメンをあげていた。
日本から取り寄せていたと言う。
長春西駅
52/55
長春観光はおしまい。
これから高速鉄道でハルピンへ向かいます。
長春西駅
53/55
ここは長春西駅。
哈大旅客専用線の駅で、高速鉄道の専用路線となっている。
長春西駅
54/55
長春西駅と長春駅は約12k離れており、長吉都市間鉄道で結ばれている。
長春西駅