イラン・イスラム共和国
アーザーディー・タワー
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イランの旅は首都テヘランから。
この塔はアーザーディー・タワー。
テヘラン空港から市内に入る所に広いアーザーディー広場があり、その中央に建つテヘランのシンボル的な存在。
イラン国立博物館
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この建物はイラン国立博物館。
後に観光する、古代ペルシアの都市遺跡ペルセポリスの出土品を中心にイラン国内の遺物を展示している。
イラン国立博物館
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イラン国立博物館の入り口ゲートの風景。
イラン国立博物館
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ペルセポリスからの出土品、古代ペルシアの都市ペルセポリスの王、ダレイオス大王の謁見図。
左は玉座に鎮座するダレイオス大王、右が謁見する諸外国の使者。
イラン国立博物館
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ここは展示品の個数や種類の多さ、保存状態の良さが有名で、イランの歴史を知るには重宝する博物館だ。
イラン国立博物館
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今に残るペルセポリスの出土品は、アレキサンダー大王によるペルセポリス侵略時に略奪を免れた貴重な遺物の品々。
イラン国立博物館
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国立博物館で出会った、見学に訪れていた女子学生達。
テヘラン市内
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市内を散策。
ここはカバブーのお店。
羊や鶏の串焼きだ。
テヘラン市内
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カバブーは肉以外にもトマトなどの野菜の串焼きもある。
美味しそうな、お肉の焼ける香ばしい匂いが、もうもうとした煙と共に立ち込めていた。
テヘラン市内
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野菜や果物のお店。
テヘラン市内
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イランで主食として食べられているナン。
専門店で焼きたてのナンを食べたが、素朴ながらとても美味しかった。
拝火教寺院遺跡
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テヘランの郊外へやって来ました。
ここはレイの町。
800年ほど前、レイがこの辺りの中心の町で、テヘランは小さな村だった。
小高い丘はミールの丘。
拝火教寺院遺跡
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古代のレイの町は拝火教、つまりはゾロアスター教の聖地であった。
ミールの丘には、朽ちてはいるが拝火教寺院の遺跡が残る。
拝火教寺院遺跡
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拝火教は古代ペルシアを起源とする。
レイ以外にも拝火教寺院の遺跡は数多く残る。
レイでは2つのアーチの遺構が残っているだけ。
拝火教寺院遺跡
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アーチの遺構の下にあった狭い通路。
レイの町はモンゴル帝国に侵略され、建物や寺院はことごとく破壊された。
町の人々は近郊のテヘラン村へ逃げ込み、テヘランの都市が発達して行った。
アリーの泉
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ここはレイの町にあるアリーの泉。
後の岩山の上には、かなり朽ちてはいるが、紀元前7世紀頃のメディア王国の城壁跡が残る。
アリーの泉
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アリーの泉の後ろの岩盤には、岩を彫刻した、かなり大きいレリーフが残っている。
描かれているのは、イランのイスラム王朝時代の王族達。
アリーの泉
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こんこんと湧く泉の水を利用して水仕事をする地元の人々。
夏は子供達の水遊びの場としてにぎわうのだそうだ。
シーラーズ
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テヘランを離れ、飛行機で一っ飛び、南へ700k程に位置する都市、シーラーズ。
街中を散策していると、小鳥におみくじを引かせる、おみくじ屋が出ていた。
エラム庭園
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ここはエラム庭園と庭園内に建つエラム宮殿。
19世紀頃ガージャール朝時代の王族の邸宅。
壁に残るフレスコ画と噴水のある池が美しいエラム庭園は、ペルシャ式庭園の一つとしてユネスコ世界文化遺産に登録されている。
サアディーの霊廟
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13世紀のイランの詩人、サアディーの霊廟。
霊廟の下は貯水池となっている。
サアディーの霊廟
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サアディー廟の地下貯水池で泳ぐ魚の群れ。
サアディーは国民に愛された国民的英雄。
シーラーズ
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細かな細工が美しい、寄木細工の工芸品の店。
シーラーズ
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この洞窟の様な所は喫茶店。
ペルシア語でチャイハネと言います。
シャー・チェラーグ廟
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日が落ちてからシャー・チェラーグ廟へ出かけました。
モスクのドームやイーワーンがライトアップされていて、とても美しい夜景だった。
シャー・チェラーグ廟
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シャー・チェラーグ廟の中へ入ってみました。中は言葉が出ない位の別世界。金色の壁に全面ガラスや鏡でモザイクを施していて、光が反射してキラキラ!!一つ間違えば悪趣味になりそうだが、イスラム建築と妙にマッチしている。
シャー・チェラーグ廟
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シャー・チェラーグ廟にはイスラム教の指導者イマームであったリダーの弟が眠る。
イマーム・リダー廟は後述するマシュハドにて紹介します。
コーラン門
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シーラーズの街の北東に建つコーラン門。
10世紀頃に建てられた歴史のある門。
何度か修復されている。
かつて門上部の小部屋にイスラム教の聖典であるコーランが保存されていた。
シーラーズ
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シーラーズを発ちペルセポリスへ向かいます。
筆者が宿泊したアパダナホテルの風景。
ペルセポリス
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イラン観光の有名スポットの代表、ペルセポリス。
遺跡への入り口は北西にある。
写真は入り口ゲートから直ぐにある大基壇。
ペルセポリスの建物はこの基壇の上に建築されている。
ペルセポリス
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大基壇の上に行くには大階段と呼ばれる幅の広い石段を上って行きます。
ペルセポリス
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大階段を上った先にあるのがクセルクセス門。
西側の牡牛像。
クセルクセスはダレイオス大王の息子。
ペルセポリス
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クセルクセス門。
万国の門とも呼ばれる。
東側の人面獣神有翼像の風景。
ペルセポリス
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クセルクセス門の全体。
ペルセポリスは古代ペルシア帝国のアケメネス朝の首都で、紀元前6世紀中頃にダレイオス大王が建設した都市。
現在、王宮跡や王墓などの遺構が残っている。
ペルセポリス
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クセルクセス門の南側にある謁見の間、アパダーナ。
王が諸国からの使節と謁見し、貢物を受け取る場。
ペルセポリスの中で最も大きい建物跡。
ペルセポリス
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クセルクセス門を東に行くと遺跡の北東のエリアに出る。ここに残るのが未完成の門と呼ばれる遺構。建築途中でアレキサンダー大王によって破壊された。2体の軍馬の像と言われている。
ペルセポリス
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未完成の門のエリアの南側には百柱の間と呼ばれるエリアがある。
写真は未完成の門のエリアから百柱の間を見た所。
ここには百本の石柱が建っていた。
今は崩れ落ちた柱の残骸が転がっている。
ペルセポリス
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百柱の間の南側にダレイオス大王の宝物庫がある。
写真右側は百柱の間から見たダレイオス大王の宝物庫方向の風景。
ここからはテヘランのイラン国立博物館に展示されていた、ダレイオス大王の謁見図が発掘された。
ペルセポリス
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当時のペルセポリスは首都と定められてはいたが、ここで政治が行われていたわけでは無い。
ペルセポリス
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遺跡に来ていたイランの女性達。
ダレイオス大王や息子のクセルクセス、孫のアルタクセルクセスが統治していたが、ほとんどペルセポリスには住んでいなかった。
ペルセポリス
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鏡の間と呼ばれるダレイオス大王の宮殿跡。
ペルセポリスはユネスコ世界文化遺産に登録されている。
ペルセポリス
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鏡の間の全景。
ペルセポリスは主に宗教儀式や祭事、諸外国からの使節に引見する場となっていた。
後期には王墓も造られ、斎場となった。
ペルセポリス
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イランの家族。
紀元前4世紀中頃、アレキサンダー大王によってペルセポリスは侵略、破壊された。
ダレイオス大王から10代目、最後の王ダレイオス3世が亡くなり、アケメネス朝は滅亡した。
ペルセポリス
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宝物庫からの風景。
左のエリアは百柱の間。
右奥の高台にはアルタクセルクセス2世の王墓が見える。
ペルセポリス
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アルタクセルクセス2世の墓。
アルタクセルクセス2世はダレイオス大王から第7代目の王。
ペルセポリス
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高台のあるアルタクセルクセス2世の墓まで上って来ました。
王墓はペルセポリスの北東にある慈悲の丘と呼ばれる岩山の岩盤を掘削して造られた。
ペルセポリス
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アルタクセルクセス2世の墓の前からペルセポリスの全景。
高台になっているので、見晴らしがとても良い。
ペルセポリス
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アルタクセルクセス2世の墓の前から眺めたクセルクセス門の風景。
ナグシェ・ロスタム
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ペルセポリスを後に、次の観光はナグシェ・ロスタム。
ナグシェ・ロスタムはペルセポリスの北、約6k程にある遺跡。
ナグシェ・ロスタム
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岩山をくり抜いて造られているのが、ペルセポリスの王族の墳墓。
左から、アルタクセルクセス1世、クセルクセス1世、ダレイオス1世。
ナグシェ・ロスタム
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クセルクセス1世の墳墓。
下に小さく映っているのが筆者。
比べるとその大きさが実感できる。
ナグシェ・ロスタム
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左から、アルタクセルクセス1世、クセルクセス1世、少し見えにくいのがダレイオス大王、右端の角度的にこちらを向いているのがダレイオス2世。
ペルセポリスの初代の王がダレイオス大王、息子がクセルクセス1世、孫がアルタクセルクセス1世、6代目がダレイオス2世。
ナグシェ・ラジャブ
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ナグシェ・ロスタムから南へ3k程、丁度ナグシェ・ロスタムとペルセポリスの中間辺りにナグシェ・ラジャブの遺跡がある。
遺跡への途中、イランの兄弟に出会いました。
ナグシェ・ラジャブ
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ナグシェ・ラジャブへの途中、羊を放牧していた。
ナグシェ・ラジャブ
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近くには岩山にくり抜いた穴が沢山あった。
墓穴だろうか。
ナグシェ・ラジャブ
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ナグシェ・ラジャブの遺跡に到着。
ここには岩盤に掘られた西暦3世紀頃、ササン朝ペルシャの初期の王族のレリーフが残る。
写真は初代の王アルデシール1世のレリーフ。
ナグシェ・ラジャブ
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こちらのレリーフは馬に乗るアルデシール1世の息子シャープール1世と家来達。
パサルガダエ
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パサルガダエはナグシェ・ラジャブから北東へ40k程にある遺跡。
遺跡内は北東から南西に3kもあり広く、一部は徒歩で移動するが、小型のバスでも移動する。
ここはパサルガダエ宮殿の跡。
パサルガダエ
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宮殿跡には崩れた石柱の残骸が転がっていた。
修復し復元工事は行わない様だ。
パサルガダエは紀元前6世紀中頃、古代ペルシャ帝国アケメネス王朝を建てた初代国王キュロス大王の首都の跡。
パサルガダエ
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少し北東へ行くとキュロス大王の王宮跡がある。キュロス大王は古代オリエント地域を統一し古代ペルシャ帝国を築いた。イランの国民はイラン建国の父として讃えている。
パサルガダエ
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キュロス大王の王宮跡。
キュロス大王はパサルガダエ完成を見る事無く戦死する。
後の帝王ダレイオス大王が引き継ぎ完成させた。
パサルガダエ
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キュロス大王の王宮から少し北東へ行くとゾロアスター教である拝火教神殿跡が残る。
入り口の壁だけが残り、倒れない様に裏側には沢山のつっかえ棒で支えている。
パサルガダエ
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最も奥ばった北東のエリアに来ました。
小高い丘の上にはタレ・タフト要塞が残る。
宝物庫も兼ねていたらしい。
パサルガダエはユネスコ世界文化遺産に登録されている。
パサルガダエ
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逆方向の南西のエリアに来ました。
少し離れた所に残るキュロス大王の墳墓。
6段の石段の上に墓室がある。
パサルガダエ
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キュロス大王の墳墓はソロモン王の母の墓とも呼ばれる。
アラブ人による侵略時、墳墓を破壊されるのを免れるため、キュロス大王の墓では無くソロモン王の母の墓であると言って免れた事から。
雪山
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パサルガダエを離れ、一路イスファハンへ向かいます。
途中、車窓から見た雪山の風景。
雪山
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イスファハンの南方には高い山々が続き、冬は雪山風景が見る事ができる。
車窓
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車窓の風景。
所々に日干しレンガ造りの建物が残る。
廃墟跡
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途中に立ち寄った、日干しレンガ造りの廃墟跡。
キャラバンサライ、隊商宿の廃墟だ。
廃墟跡
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今では使われなくなり、人も住まない集落跡。
廃墟跡
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地層がむき出しの断崖の上に風化し、崩れた日干しレンガの建造物。
廃墟跡
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谷間にひっそりと残るモスクの跡。
崖の上にも塔が残っている。
イマーム広場
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イスファハンの街に来ました。
街の中心にはイマーム広場がある。
左は広場の西に建つアーリー・カープー宮殿。
アーリー・カープー宮殿
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イマーム広場を建造したサファヴィー朝の王シャー・アッバース1世が建築した宮殿で、西側の王宮の門でもある。
6階建て構造になっている宮殿は、当時は国内で初めての高層建築物だった。
3階部分がテラスになっていて、広場を見渡す事ができる。
イマーム広場
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イマーム広場の周囲は門やモスク、王宮の間を2階層のマーチ状のアーケードに囲まれている。
その内、1階部分が店舗になっている。
イマーム広場
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アーケードの店舗はアーチ1つ分毎の区画で1店舗、商売人に貸し出され、様々なお店が営業している。
紀元前アケメネス朝時代に町は形成され、西暦3世紀サーサーン朝の支配下時代から交易で発展を始める。
イマーム広場
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このお店では彫刻が美しい絵皿や壺、水差しなどの金属製の工芸品を売っている。
この広場は、イスファハンのイマーム広場としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。
イマーム・モスク
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イマーム広場の南側に建つ大寺院イマーム・モスク。
広場に面して建つのは、高い天井を持つ開放的ホールの様なイーワーン。
シェイフ・ロトフォッラー・モスク
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イマーム広場の西側、アーリー・カープー宮殿の前まで来ました。
ここから見た、東側に建つモスク、シェイフ・ロトフォッラー・モスクの風景。
これからアーリー・カープー宮殿に入り、テラスに上ります。
イマーム・モスク
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アーリー・カープー宮殿の3階テラスから見た南側の風景。
左がイマーム・モスクのイーワーン、右にはモスクのドームが見える。
イマーム広場
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ここはイランの特産物、ペルシア絨毯の店。
小さなものから大きいサイズまで、図柄も様々な幾何学模様で織られている。
イマーム広場
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アーケードの店舗では沢山のショップが並ぶ。
様々な民芸品、手作りの手芸品を売るクラフトショップの陳列物は、通りから見ているだけでも楽しい。
シェイフ・ロトフォッラー・モスク
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イマーム広場の西側に来ました。
写真はシェイフ・ロトフォッラー・モスクの入り口、イーワーンの風景。
王族の専用モスク。
シェイフ・ロトフォッラー・モスク
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礼拝堂への通路。
イーワーンの外壁やドーム、内装を覆う、紺色の美しいタイル模様はアラベスクと呼ばれる、イスラム美術の幾何学的文様。
イマーム・モスク
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イマーム広場の南側へ移動。
これからイマーム・モスクを観光します。
ここは広場に面して建つイマーム・モスクのイーワーン。
モスクへの入り口でもある。
イマーム・モスク
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イーワーンから続く、モスク中庭まではアーケードとなっていて、お店が出ていた。
イスファハンは様々な王朝の支配を受けながら、文化、交通、商業において東西交易の要、シルクロードの中継都市として繁栄して行く。
イマーム・モスク
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中庭に出ました。
左が中庭の南西面に建つ中央礼拝堂、右が北西面に建つイワーン。
イマーム広場の4面をほぼ東西南北に面しているのに対し、イマーム・モスクの中庭は45度傾いている。
イマーム・モスク
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北西面に建つイワーンを背景に筆者近影。
メッカの方向がイマーム・モスクから南西方角であるため、中央礼拝堂の面を南西に傾け建築した。
イマーム・モスク
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北西面のイワーンから見た、南西面の中央礼拝堂の風景。
まともに逆光になってしまった。
イマーム・モスク
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イマーム広場の南側へと続く、北東面に建つイーワーンの風景。
左奥のイーワーンやミナレットと45度傾いている事が判る。
イマーム・モスク
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礼拝堂の風景。
紺色のアラベスク模様が美しいこのモスクは、イスラム建築を代表する建築物。
イマーム・モスク
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礼拝堂の風景。
イマーム広場を建造したサファヴィー朝の王シャー・アッバース1世は、イマーム広場やアーリー・カープー宮殿に続き、この荘厳なモスクを建てたが、完成までに20年近く掛かり、完成を見る事無く世を去った。
バザール
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イマーム広場の北側に向かう。
北にはバザールの入り口、バザール門があり、ここから北側に大きなバザールが広がる。
ここは錫や白銅などの金属工芸品の店。
バザール
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カーペットや服、布袋など刺繍を施した品々が置かれている。
絨毯も床の敷物だけでは無く、壁掛けなどの室内装飾用、タペストリーも多く売っている。
バザール
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様々な香辛料、スパイス類が並んでいる。
むせる様な香りが漂う。
このイマーム広場北側に広がるバザールはとても広く、迷路の様になっていて、筆者は迷子になってしまいました。
アバシ・ホテル
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筆者が宿泊したホテル、アバシ・ホテル。
イマーム広場からも近くて観光には便利。
アバシ・ホテル
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アバシ・ホテルの中庭風景。
このホテル、古くは隊商宿、キャラバンサライであった。
それをそのままに改修してホテルにしている。
イマーム・モスク
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朝、宿泊したホテルの部屋から見た、朝日に当たるイマーム・モスクの風景。
交易により栄えたイスファハンだが、利権を巡った争いが起こり、15世紀にはティムール朝により破壊された。
チャハル・バーグ・マドラッサ
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部屋から見た、ホテルの隣に建つチャハル・バーグ・メドレッセ。
メドレッセとは神学校の事。
朝日に当たるミナレットの塔とドームが美しい。
チェヘル・ソトゥーン宮殿
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イマーム広場の真西すぐの所にチェヘル・ソトゥーン宮殿がある。
宮殿内は宮殿の東側に池のある庭が広がり、緑が多い。
チェヘル・ソトゥーン宮殿
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宮殿内に来ました。
この宮殿はサファヴィー朝第7第の王、シャー・アッバース2世の宮殿。
奥ばった所にイーワーンが有り、黄金色に輝いていた。
チェヘル・ソトゥーン宮殿
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宮殿内のイーワーンから東に広がる庭園方向の風景。
宮殿は沢山の柱で支えられており、40の柱宮殿とも呼ばれる。
ザーヤンデ・ルード川
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イスファハンの市内を西から東へ流れるザーヤンデ・ルード川。
水鳥が羽を休めている。
イスファハンはザーヤンデ・ルード川の賜物と言えるほど、この川に沿って栄えたオアシス都市で、古代より重宝されてきた。
スィー・オ・セ橋
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ザーヤンデ・ルード川に架かる橋の一つ、スィー・オ・セ橋。
イマーム広場から南へ2k程の所にある。
スィー・オ・セ橋
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サファヴィー朝の王シャー・アッバース1世によって建設されたこの橋は、橋げたのアーチが33個ある事から、33アーチ橋とも呼ばれる。
スィー・オ・セ橋
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橋の下のアーチではお店も出ていて、ここはチャイハネ。
お茶と一緒に水タバコを吸っていた。
スィー・オ・セ橋
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チャイハネに置いていた水タバコの器具。
ガリヤーンと呼ぶそうだ。
ヴァーンク教会
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スィー・オ・セ橋から南西へ2k程にアルメニア使徒教会の聖堂、ヴァーンク教会が建つ。
ヴァーンク教会
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当時、アルメニア人は東西シルクロードの交易商で潤っていた。敵対するオスマン帝国へアルメニアの資金が流出しない様にシャー・アッバース1世は、イラン国内に移住させた。また、行っていたイスファハンの街づくりには人手が必要で、アルメニア人が動員された。
ヴァーンク教会
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シャー・アッバース1世はアルメニア人に特権を与えるなど手厚く保護し、彼らの信仰のためアルメニア正教教会を建築した。その後、サファヴィー朝歴代の王達も教会の修復や保存に力を尽くした。イスファハンのアルメニア正教教会は複数残るが、17世紀に建てられたこのヴァーンク教会が名高い。
ハージュ橋
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この橋はハージュ橋。
スィー・オ・セ橋から南東2k程下流の所に掛かる。
ハージュ橋
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規則正しく並ぶアーチの橋げたで造られているハージュ橋は2層になっている。
川を渡るための一般の通行は上層部で、下層部は川の流れを眺めたり、水辺まで下りたりと憩いのスペースとして使われている。
ハージュ橋
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上層部の下、アーチの橋げた。
アーチの間の溝にそって川の水は流れる。
この流水路に板をはめ込むと、せきになり、簡易のダムになり水量の調整ができる。
ハージュ橋
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ハージュ橋の上流側の風景。
右奥の出っ張った構造物は、橋の中央に造られた八角形のテラスで、シャー・アッバース2世が納涼として使用した。
ハージュ橋
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橋の上、歩道部分です。
イスファハンの街を統治したサファヴィー朝の君主達はザーヤンデ・ルード川に石橋をいくつか掛けたが、今に残る橋の中では、第7代の王シャー・アッバース2世が建設したこのハージュ橋が最も壮観で華麗な橋だ。
ハージュ橋
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歩道の両サイドに建つアーチの壁。
アーチからは流れるザーヤンデ・ルード川や街の風景を望む事ができる。
ザーヤンデ・ルード川
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筆者が訪れた時は豊かな川の流れがあったが、現在は異常気象による干ばつや、農工業での過剰使用で渇水し、涸れ川ワジとなった。
そのため、イスファハンの市民は水不足に悩まされている。西に流れるイラン最大の川、カールーン川からトンネルを掘って水を引き込むなど、ザーヤンデ・ルード川再生計画がある。
シャフレスターン橋
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ハージュ橋から南東へ4k程の下流に来ました。この橋はシャフレスターン橋。正確にはザーヤンデ・ルード川には掛かっていない。川の流れが変わり、取り残された池に架かっている。
シャフレスターン橋
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イスファハンに残る橋の中で最も古い橋との事。
アーチ状の橋脚が美しいこの橋は文化的価値がある。
国際見本市
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シャフレスターン橋を渡った北側に国際見本市会場がある。
見学に大勢の女子学生が訪れていた。
国際見本市
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見本市会場内の風景。
この日は農作物や農機具など、農業関連の展示会が開催されていた。
国際見本市
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タマネギやジャガイモなど、野菜を使ったアート作品。
16世紀末、サファヴィー朝の第5代の王シャー・アッバース1世はティムール朝により破壊されたイスファハンの街を復興する。
国際見本市
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見本市会場にて。
訪れていた女の子達。
ジャーメ・モスク
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イスファハンの街にあるも言う一つの世界遺産、ジャーメ・モスク。
イマーム広場の北東2k程に建つ。
写真は中庭の風景。
中央には清めの泉が設置されている。
ジャーメ・モスク
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北東面に建つイーワーン。
ジャーメ・モスクのジャーメとは金曜日の意味で、金曜モスクの事。
ジャーメ・モスクは一つの特定モスクを指す名前ではなく、それぞれの街にある最も大きなモスクを言う。
よって、ここのモスクはイスファハンのジャーメ・モスクとなる。
ジャーメ・モスク
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