イラン・イスラム共和国(ペルセポリス)
ペルセポリス
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ここはペルセポリス、観光拠点となる街、シーラーズから直線距離で北東へ50kほどに位置する。
イラン観光の有名スポットの代表的な存在。
写真は大基壇、テラスと呼ばれる建造物。
ペルセポリスの建物はこの大基壇の上に建築されている。
大基壇と大階段
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遺跡への入り口は北西にある。
大基壇の上に行くには大階段と呼ばれる幅の広い石段を上って行きます。
写真は入り口ゲートから直ぐにある大基壇への大階段。
大基壇と大階段
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大階段と大基壇を横から。
大基壇は慈悲の丘、クーフ・アッラフマトと呼ばれる岩山の裾野にあった堅固な岩盤の上に切石を積み上げて構築、高さ10m、東西300m、南北450mもの広さを持ち、地下には排水溝や貯水槽も備わっていた。
クセルクセス門
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大階段を上った先にあるのがクセルクセス門。
西側の牡牛像。
クセルクセスはダレイオス1世の息子。
クセルクセス門
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クセルクセス門の東側の人面獣神有翼像の風景。
クセルクセス門は万国の門とも呼ばれる。
クセルクセス門
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クセルクセス門の全体。
ペルセポリスは紀元前6世紀、古代オリエントのアケメネス朝ペルシアの君主、ダレイオス1世が築いた都。
現在、王宮跡や宝物庫、兵舎、多柱式広間、岩山に王墓などの遺構が残っている。
クセルクセス門
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クセルクセス門の前で筆者近影。
ペルセポリスの都は完成までに息子のクセルクセス、孫のアルタクセルクセス1世と三代60年間を要した。
アパダーナ
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クセルクセス門の南側にある謁見の間、アパダーナ。
王が諸国からの使節と謁見し、貢物を受け取る場。
ペルセポリスの中で最も大きい建物跡。
アパダーナ
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謁見の間、アパダーナは列柱のある広間、多柱式建築による大広間謁見室となっていて、当時は高さ20mほどの柱が36本建っており、広い屋根を支えていた。
現在に残るのは12本。
レリーフ
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謁見の間、アパダーナの見所の一つに、階段脇の石に残された浮き彫り、レリーフがある。
従属国からの貢物を携えた使者や牡牛を襲うライオンのレリーフが残る。
アパダーナ
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ダレイオス1世の時代のアケメネス朝ペルシアは広大な領土を支配した帝国となった。
西はエジプト、エーゲ海沿岸から東はインダス川流域、インドに至る大帝国と築く。
ペルセポリス
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遺跡に来ていたイランの奥様方。
筆者と一緒に記念撮影。
未完成の門
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クセルクセス門を東に行くと遺跡の北東のエリアに出る。
ここに残るのが未完成の門と呼ばれる遺構。
建築途中でアレキサンダー大王によって破壊された。
2体の軍馬の像と言われている。
百柱の間
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未完成の門のエリアの南側には百柱の間と呼ばれるエリアがある。
写真は未完成の門のエリアから百柱の間を見た所。
ここには百本の石柱が建っていた。
今は崩れ落ちた柱の残骸が転がっているだけ。
百柱の間
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百柱の間の南側にダレイオス1世の宝物庫がある。
写真右側は百柱の間から見たダレイオス1世の宝物庫方向の風景。
ここからはテヘランのイラン国立博物館に展示されていた、ダレイオス1世の謁見図が発掘された。
百柱の間
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ペルセポリスの名はギリシア人が名付けた名称で、ペルセ:ペルシア人、ポリス:都市国家、でペルシア人の都市国家の意味。
ただ、ギリシア人はマケドニア王国のアレキサンダー大王の侵攻までペルセポリスの存在を知らなかった。
現在のイランではペルシア語で、タフテ・ジャムシード、タフテ:玉座、ジャムシード:拝火教神話に登場する王、でジャムシード王の玉座と呼ばれている。
百柱の間
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アケメネス朝ペルシアの最初の首都はキュロス2世によって築かれた、ペルセポリスから北東へ40kほど離れたパサルガダエの都だった。(パサルガダエをご覧下さい)
キュロス2世が亡くなった後、ダレイオス1世によりペルセポリスは築かれ、都はパサルガダエから遷都された。
百柱の間
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当時のペルセポリスは首都と定められてはいたが、ここで政治が行われていたわけでは無い。
都市を築いた初めの頃は、ここで政治が行われていた形跡が宮殿跡などから発見されてはいるが、ダレイオス1世や都市を造営して行った息子のクセルクセス、孫のアルタクセルクセス1世はほとんどペルセポリスには住んでいなかった。
鏡の間
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鏡の間と呼ばれるダレイオス1世の宮殿跡。
後期には王墓も造られ、斎場ともなった。
ペルセポリスはユネスコ世界文化遺産に登録されている。
鏡の間
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鏡の間の全景。
ペルセポリスが築かれた初期の期間を除いては季節によて、スーサ、バビロン、エクバタナの各都市でまつりごとを行っており、ペルセポリスは主に宗教儀式や祭事を行うため、また諸外国からの使節に引見する王宮として使われたと考えられている。
鏡の間
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従属国からの使者は、王に捧げる様々な貢ぎ物を持って訪れた。
ペルセポリスの歴代の王の下には膨大な財宝が集まり、宝物庫に収めた。
ペルセポリス
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イランの家族。
紀元前4世紀中頃、アレキサンダー大王の率いるマケドニアの軍勢が侵略、ペルセポリスは焼き討ちされ破壊された。
アルタクセルクセス2世の王墓
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宝物庫からの風景。
左のエリアは百柱の間。
右奥の高台にはアルタクセルクセス2世の王墓が見える。
アルタクセルクセス2世の王墓
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アルタクセルクセス2世の墓。
アルタクセルクセス2世はダレイオス1世から第7代目の王。
アルタクセルクセス2世の王墓
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アレキサンダー大王は宝物庫から金銀財宝を奪い取る。
伝説では数千頭のロバやラクダに載せて運び出した、と言われている。
アルタクセルクセス2世の王墓
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ペルセポリスはアレキサンダー大王の侵略から少しの間、都市としての機能を有していたが、ダレイオス1世から10代目、最後の王ダレイオス3世が亡くなり、アケメネス朝は滅亡した。
アルタクセルクセス2世の王墓
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高台のあるアルタクセルクセス2世の墓まで上って来ました。
王墓はペルセポリスの北東にある慈悲の丘、クーフ・アッラフマトと呼ばれる岩山の岩盤を掘削して造られた。
アルタクセルクセス2世の王墓からの風景
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アルタクセルクセス2世の墓の前からペルセポリスの全景。
高台になっているので、見晴らしがとても良い。
アルタクセルクセス2世の王墓からの風景
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現在、砂漠の荒野が一面に広がる地に廃墟となった遺跡が残り、壮大な石造りの建造物群からはアケメネス朝のかつての繁栄、壮麗さをしのばせてくれる。
クセルクセス門