キルギス共和国(アク・ベシム)
アク・ベシム遺跡
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次の訪問地はアク・ベシム遺跡。
バラサグン遺跡から北西に数kと、とても近い位置にあり、ほとんどの方はバラサグン遺跡ブラナの塔の観光と併せて訪れる。
またカザフスタンとの国境にも近く、数k北はもうカザフ。
アク・ベシム遺跡
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遺跡周辺の農地で農作業する地元の人達。
周囲には畑や草原以外、何も無い。
その中に、縦600m、横800mの長方形の区画だけ保護されており、遺跡が守られている。
アク・ベシム遺跡
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北にアラタウ山脈西端、南に天山山脈西端の山々に挟まれた、チュイ川が流れる盆地は、中世初期より東西交易のシルクロードが通っていた。
チュイ川盆地には6世紀頃、シルクロードの要衝として、交易で栄える街々が興る。
アク・ベシム遺跡
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7世紀頃までに中央アジアの広大な地に、ペルシア系農耕民族のソグド人が暮らしており、商業にも長けていた彼らは、各地に入植地を作り繁栄した。
古代都市遺跡が残るアク・ベシムの地は、入植したソグド人が最初にスイアブと名付けた。
これはチュイ川の別名、スーイ川から来ていると考えられている。
アク・ベシム遺跡
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7世紀、テュルク民族の王国、突厥(とっけつ)が中央アジア一帯に勢力を広めて来た。
突厥はスイアブに都を置いた。
アク・ベシム遺跡
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7世紀の終わりごろ、中国の王朝、唐は西域にも進出する大帝国となっていた。
シルクロード東西交易の中継都市として繁栄していたスイアブを、西方進出の拠点とするべく、唐は侵略する。
アク・ベシム遺跡
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唐の支配下となったスイアブの都市は、碎葉鎮と改められた。
唐の皇帝、高宗の皇后、則天武后は仏教を重んじていたため、スイアブに寺院を建て、仏教都市とする。
アク・ベシム遺跡
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唐が衰退した後、この地にイスラム国家のカラハン朝が台頭してくる。
9世紀終わり頃には、カラハン朝は南にあるバラサグンを首都に定めたため、スイアブはバラサグンに取って代わられ、衰退して行く。
アク・ベシム遺跡
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廃墟となり、永らく打ち捨てられた都市は、やがて人々から忘れ去られて行った。
僅か、残骸の跡を地元の人達はアク・ベシム村の名から、この廃墟をアク・ベシムと呼んでいたに過ぎなかった。
近年になり遺跡の発掘調査が行われ、出土した遺物から、ここがかつてシルクロードの時代に存在した幻の都、スイアブである事を突き止めた。
アク・ベシム遺跡
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遺跡からは仏教寺院の跡や、モスクの跡などが見つかったとの事ですが、見た目には全く判らない。
シルクロードの貿易路、文化と文明の十字路として栄えたアク・ベシムの都市遺跡、今では日干しレンガの遺構が残る程度。
家畜の放牧
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遺跡近くでは家畜を放牧させていた。
現在、見る事の出来るアク・ベシム遺跡は、カラハン朝時代の10世紀末の物と考えられている。
村の子供達
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アク・ベシム遺跡近くの村に立ち寄りました。
近付いて来た村の子供達。
みんな人なつっこい。
アク・ベシム遺跡から発掘された出土品は、現在ビシュケクの国立歴史博物館で展示されている。
村人
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お祖父ちゃんとお孫さん。
カメラを向けるとニッコリしてくれました。
アク・ベシム遺跡は広く、仏教寺院や仏像、モスク、キリスト教の教会などの遺構が発掘された。
村の子供達
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村の子供たちが集まっていた。
先ほど、村の入り口で見かけた子もいた。
アク・ベシム遺跡の出土品からも、多くの宗教、仏教、イスラム教、キリスト教、ゾロアスター教などを信仰する人々が、一緒に暮らしていたと考えられている。
子牛
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寝そべっていた子牛。
遺物からはテュルク民族の石人、バルバルやソグド語、ウイグル語の石碑が発掘され、街の周囲には多民族の遊牧民が暮らしていた痕跡も見つかっている。
古代都市スイアブでは長い間、多くの人種、宗教や文化は融合していた様だ。
村人