ラオス人民民主共和国(シェンクワン)
ナムグム川
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ビエンチャンから飛行機でシェンクワンへ向かいます。
途中、飛行機からの風景。
すごく蛇行している川はメコン川支流のナムグム川。
ナムグム湖
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この湖はナムグム湖。
ナムグム川をせき止め、ナムグムダムを建設。
その時に生まれた人工のダム湖。
水力発電に利用され、電気の一部はタイへ輸出されている。
シェンクワン空港
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シェンクワン空港へ到着。
ビエンチャンから北東へ180k、プロペラ機で30分で着く。
ムアンクーン
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空港から南東へ30k、ムアンクーンの町に到着。
とってものどかな田舎で、普通に店の前の道路を牛が歩いていた。
ムアンクーン
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高床式の住居。
この町はかつてはシェンクワン県の県都だったが、大国の代理戦争となっていたインドシナ戦争時にアメリカ軍の空爆攻撃を受け町は破壊された。
ムアンクーン
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ここは学校らしい。
町の外には未だに砲弾の残骸や、爆弾が破裂した跡がクレーターの様になった跡などが生々しく残る。
ムアンクーン
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筆者たちに手を振る地元の子どもたち。
戦争の悲惨さを知らない無邪気な子たちだ。
ワット・ピアワット
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ムアンクーンの町に残るワット・ピアワットと言う仏教寺院跡。
屋根もなく、柱と外壁の一部が残るのみの廃墟の中に仏像がかろうじて残っている。
町が破壊されたインドシナ戦争時に寺も無差別に空爆攻撃を受け破壊された。
ワット・ピアワット
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野ざらしの状態に今なお置かれているワット・ピアワットの仏様。
修復はせずに、戦争の悲惨さを現在にまで伝えているという。
ワット・ピアワット
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慈悲に満ちたこの仏像はひざに手を置き悟りを開くブッダだと言う。
哀れな姿になっても、多くの人がお参りに来る。
ムアンクーン
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町を歩いていると、何やらカタコトと聞こえてきた。
ここは織物の工房の様だ。
ムアンクーン
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糸を紡ぐのも、機織り機で織るのも全て人手で行っている。
電気を使うものは何にもなかった。
ムアンクーン
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女の子が何人か来ていた。
お手伝いをしているのかな。
病院跡
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ムアンクーンの町に残る空襲で破壊された建物の残骸。
これは病院跡だそうだ。
病院跡
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ラオスはラオス王国として独立する前はフランス領インドシナの一部に取り込まれていた。
この病院はそのフランス植民地時代にフランスによって建てられた古い病院だった。
タート・フーン
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ワット・ピアワットから南西へ少し行った藪の中に朽ちた仏塔が残っていた。
タート・フーンと呼ばれている。
タート・フーン
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近くまで来ました。
歴史文献などがほとんど残っていないので、未だに詳しい事は判らないタート・フーン。
説では16世紀ラーンサーン王国時代の王族の墓だと言う。
タート・フーン
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近くの藪で草を食べていたヤギ。
ブッダの遺骨を納めているのではないので、正確には仏塔ではない。
タート・フーン
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塔の下の方に開けられた穴があった。
埋葬品を狙った盗掘の跡なのだろう。
これを見ると塔は四角のレンガを積み重ねて建てている様だ。
タート・チョムペット
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タート・フーンから少し離れた所に残るタート・チョムペットと呼ばれる塔。
こちらは王妃の遺骨が納められていると伝わる。
塔の先端は壊れ、全体が苔で覆われていて、廃墟と化している。
婚活パーティー
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ムアンクーンからシェンクワン県の県都ポーンサワンへ向かいます。
途中、大勢の人が集まっていた。
何かと思えば、なんと集団の婚活パーティーなのだそうだ。
婚活パーティー
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娘たちはきれいで華やかな衣装を身につけている。
この方たちはモン族の娘さん。
独特の民族衣装だ。
婚活パーティー
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この風習の変わっている所は、独身の男女が列を作り、互いに向き合い、片手でボールをキャッチボールしながら会話をする事。
気に入った人がいれば、好意を持っていることを伝えるため、その人にボールを何度も投げるのだそうだ。
婚活パーティー
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モン族の娘さんとのツーショット。
投げた相手も同じ気持ちなら投げ返してくれ、何度もキャッチボールを繰り返すと言う仕組み。
べっぴんさんがいて、複数の男から投げられたらボールを受けきれないと思うのだが。
婚活パーティー
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子どもたちもいた。
人なつっこい、モン族の子供たち。
将来の自分たちのために、お兄ちゃんやお姉ちゃんの婚活を見学かな。
婚活パーティー
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このキャッチボールをしながらの婚活はモン族のお正月行事だそうで、村人も総出で若いカップル誕生を見守っている。
さて、今回は何組のカップルができたのでしょうね。
婚活パーティー
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ラオスではラオ族が多いのですが、シェンクワンでは山岳民族のモン族が多く暮らす。
ポーンサワン
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ポーンサワンの街にやって来ました。
シェンクワン空港がある街なので、戻って来たと言う方がいいかな。
ここは木工製品の工房へ行きました。
一つ一つの手作りで、製品は置物から器まで様々。
ホテル
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ホテルの部屋からの風景。
とても、のどかな田舎の風景だ。
ホテル
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ポーンサワンの中心から少し外れている高台に建つ。
周りには特に何も無いので、ベランダへ出て、ゆっくり景色を楽しみました。
ホテル
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ホテルの部屋からの夕焼けの風景。
太陽が沈み切った後、わずかなオレンジ色の空。
ホテル
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ホテルの夜景。
筆者が宿泊したホテルは、ワンサナ・プレーン・オブ・ジャール。
綺麗なコテージ風に建てられている。
ラオス伝統舞踊
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夕食はラオス伝統舞踊を鑑賞しながら頂きました。
ステージはそれほど広くは無かった。
ラオス伝統舞踊
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舞踊のパートは女性のソロと男女のペアで構成されていた。
東南アジア特有のしなやかな指先、手のひらをくねらせ、柔らかな腰の動きが美しいラオス伝統舞踊。
ラオス伝統舞踊
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ラオスの民族衣装をまとった踊り手さん。
女性の民族衣装はシンと呼ばれる腰巻きスカート。
ラオス伝統舞踊
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民族衣装のシンは普段着として着られる他、結婚式などの行事や儀式でも正装として用いられる。
サービス業や学校の制服としても採用されている。
ラオス伝統舞踊
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女性の肩から掛けているのはタービアンと呼ばれる布で、正装に用いられる。
男性の民族衣装はサロンと呼ばれる。
ポーンサワン・マーケット
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ポーンサワンの朝の観光は市場へ。
ここはポーンサワン・マーケット。
ポーンサワン・マーケット
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ポーンサワンの街の中心地、メインストリート沿いに建つ市場。
とても広いので食品コーナーを廻りました。
ポーンサワン・マーケット
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新鮮な野菜がたっぷり。
庶民の生活をうかがえる、ポーンサワンで最大の市場。
ポーンサワン・マーケット
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失礼して食事中の奥さん、お嬢さんたちをカシャッ。
朝早くから働いていたので、遅めの朝食かな。
ポーンサワン・マーケット
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ママに甘える男の子。
市場内には肉類、魚類、野菜、果物など多くの食材がぎっしり。
ポーンサワン・マーケット
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長細く建てられているこの市場は、戦時中の飛行場の跡地に建てたそうだ。
北西へと延びている。
ポーンサワン・マーケット
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調味料のお店にいたお嬢さん。
日本の様に保冷のガラスショーケースなどには入っていないため、辺りは独特のにおいがする。
ポーンサワン・マーケット
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お店のママのそばにいた女の子。
突然カメラのシャッターを切られてびっくりかな。
ポーンサワン・マーケット
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ここポーンサワンの街は前述のムアンクーンが戦争で壊滅したため、シェンクワンの県都として新しく街が造られた。
ムアンクーンは古い県都、オールド・キャピタルと呼ばれる。
ポーンサワン・マーケット
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お食事中の男の子。
市場ではお店を開いているのは女性がほとんど。
後は子どもたち。
ポーンサワン・マーケット
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イチジクなど果物を売っていた。
ばあ様も元気で仕事をしている。
ポーンサワン・マーケット
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市場では食材だけではなく、お惣菜、おかずを扱う店も多い。
お惣菜店で店番をする女の子。
ポーンサワン・マーケット
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こちらの惣菜店は串焼きを置いていた。
魚の開きやお肉類、野菜などを串焼きにしている。
ポーンサワン・マーケット
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こちらも串焼き屋さん。
まだ小さい子供たちの面倒を見ながらお店を切り盛りしている。
ポーンサワン・マーケット
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こちらは肉系の食材。
下はコウモリで、上はスズメのヒナかウズラか、小鳥の羽をむしり取っている。
お昼のおかず
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売っていたコウモリを手にする筆者。
お昼ご飯にと、小さく切って唐揚げにしました。
肉はそれほど多くなく、ほとんど骨。
唐揚げになっているので、本来は頭からガリガリ食するらしい。
でも、小さいながら牙も付いていたので、頭から行くのは遠慮して、少ない肉をせせって食べました。
お昼のおかず
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お昼のおかずになった、ネズミ。
猫くらいの大きさで前歯が大きく、大ネズミと言ったところ。
同じ種類か判らないが、中国、雲南省の市場でも見かけた、モグラの様に土の中で暮らすネズミに似ている。
これはケッコウいけました。
皮の部分がブヨブヨとコラーゲンたっぷりの豚足の様で、特に臭いも無く食べやすかったです。
ジャール平原
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ここはジャール平原。
ポーンサワンの街から5kほど、南西の郊外の高原に平原が広がり、不思議な巨石をくり抜いた石つぼが残る。
ジャール平原
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シェンクワンの観光の目玉が石つぼが点在する、このジャール平原。
大小さまざまな謎の石つぼが無数におかれている小高い丘。
ジャールとはフランス語で「つぼ」の事だそうです。
ジャール平原
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第二次世界大戦前、1930年代にフランスの考古学者によって発見された。
その後も広範囲で石つぼは発見され、それぞれのエリアを各サイトとして管理している。
ジャール平原
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石つぼの横に立つ筆者近影。
筆者が訪れたここはサイト1。
ポーンサワンの街から最も近く、またたくさんの石つぼが残るので、どれか一つのサイトとなると、このサイト1だ。
ジャール平原
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そもそも、この石つぼは何か。
実は正確で決定的な事は判っていない。
酒つぼ、米つぼなど諸説あるが、詳しい文献は残っておらず不明。
ジャール平原
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モン族たちの伝承ではかつて巨人たちの国があり、彼らのお酒を飲むぐい飲みだとか。
発見当初は岩石を削って造った、食糧などの貯蔵庫と考えられていた。
ジャール平原
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発見された時には、すでに中には何も無く空だったが、焼かれた人骨が複数の石つぼから発見された事、わずか一部に副葬品と思われる玉などが見つかった事から、埋葬するための石棺とする説が有力となっている。
ジャール平原
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年代測定の結果、紀元前15世紀ごろから造られ始めたと言うが、採石場からこの起伏のある大平原までどうやって運んだのか、巨石文明の謎は多い。
ジャール平原
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珍しい、石蓋が付いた石つぼ。
残る石つぼの大きさは大小様々。
大きい物は中に大人が立って入れる位のスペースがある。
ジャール平原
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サイト1にあった洞窟。
戦争中に住民たちが避難する防空壕の跡。
ジャール平原
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洞窟の中へ入ってみます。
入り口は広く、中も広い。
入り口脇には小さな祠が祀られていた。
ジャール平原
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洞窟内部の風景。
天井は高く、大きな穴が開いていた。
この穴は爆撃で空いた穴だとか。
ジャール平原
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サイト1内にあった看板。
これは地雷や不発弾の撤去を支援する非政府組織MAGの看板で、ジャール平原においての不発弾処理について記載されている。
ジャール平原
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シェンクワンの地はインドシナ戦争時に大量の爆弾が落とされた。
その爆弾の中に大量の小型爆弾で構成されたクラスター爆弾があった。
ジャール平原
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最悪だったのは、落とされたその子爆弾が3割も不発に終わり、広範囲に不発弾として残ってしまった事。
そのため戦後、地雷の様に気が付かないうちに触れてしまい、爆発に巻き込まれるケースが多発した。
ジャール平原
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戦争当時、兵士はこのつぼに隠れてゲリラ戦を行なったため、特に爆撃がひどかったと言う。
ここジャール平原にも無数の不発弾が残っている。
ジャール平原
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筆者が訪れた時は、ジャール平原はまだ世界遺産に登録されていなかった。
政府は長い間申請を出し続けたが、登録に至らなかった理由として、歴史的背景が不明なためだった事と、戦争時の不発弾が残っていたため。
ジャール平原
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シェンクワン県ジャール平原の巨大石壺群としてユネスコ世界文化遺産に2019年、やっと登録された。
たが、数あるサイトの中で登録されたのは15のサイトだけ。
現在、サイト1~3は自由に観光できるが、それ以外は専門のガイドが付かないと入る事ができない。
ジャール平原
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ジャール平原の丘からシェンクワン空港が見渡せた。
軍用機もたくさん停まっている。
サイト1から空港まで直線距離で2kほどだ。
シェンクワン空港
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シェンクワンの観光はおしまい。
これからビエンチャンへ戻ります。
シェンクワン空港のターミナル風景。
シェンクワン空港