パキスタン・イスラム共和国
カラチ
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パキスタンの旅はカラチから。
ここはパキスタン国立博物館の入り口。
後述するモヘンジョダロ遺跡からの出土品などを展示している。
カラチ
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パキスタンはイギリスの植民地だったイギリス領インド帝国の一部を形成していた。
国立博物館近くから見えたイギリス統治時代の古い建築物。
子供達
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遠足かな?
国立博物館近くの広場で、にぎやかにお弁当を広げていた子供達。
ディフェンス・モスク
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この斬新な建物はカラチ最大のモスク、ディフェンス・モスク。
ドーム球場の様に柱は無く、モスクの典型的なタマネギ型のドームや、塔であるミナレットが無い。
ジンナー廟
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ここはジンナー廟。
パキスタン建国の父として尊敬を集めるムハンマド・アリー・ジンナーが眠る霊廟。
中央には大理石の棺が置かれている。
ジンナー廟
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ジンナーはパキスタン独立の指導者であり、独立後の初代総督。
霊廟は棺を守る衛兵が詰めており、内部や外部を規則正しく巡回している。
高台に建っており、市内を見渡す事ができる。
クリフトン・ビーチ
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海辺に来ました。
ここはクリフトン・ビーチ。
カラチはアラビア海に面しており、遠浅のビーチが広がる。
クリフトン・ビーチ
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ラクダのいるビーチ。
ラクダや馬の背に揺られてビーチを散歩できます。
クリフトン・ビーチ
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この辺りはイギリス統治時代から保養地として知られ、現在では整備された公園やショッピングモールが建ち、賑わいを見せている。
クリフトン・ビーチ
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ビーチ近くに建っていた白亜のモスク。
カラチの街はインダス川河口を中心に栄え、パキスタン独立後は首都であった。
イスラマバードへ遷都された現在でもパキスタン最大の都市となっている。
洗濯場
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この一風変わった所はドビー・ガートと呼ばれる、野外にある広大な洗濯場。
洗い方は大胆だ。
洗い物を振り上げ、コンクリにひたすら打ち付けている。
絶対に生地は傷むだろうな。
洗濯場
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洗濯槽を見てみると泥の色。
知らない人が見ると、生地に染色しているかと見紛うだろう。
浸けると余計に汚くなりそうでした。
洗濯場
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インドと文化が似ていて、ムンバイにも同じ様な野外の洗濯場がある。
誰でも自由に衣類を持ち込んで洗濯できるのではなく、職業にしている洗濯屋が共同で利用している。
モハッタパレス
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奥の建物はモハッタパレス。
初代総督ジンナーの妹の宮殿。
現在は宮殿博物館として一般に公開している。
カラチ市内
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イスラム寺院モスク。
大小様々なモスクが市内には建つ。
カラチ市内
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モスク近くにあった、花束のお店。
カラチ市内
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モスクの近くだけあって宗教的なイスラムグッズのお店があり、礼拝に必要なのだろう、様々な品を置いていた。
カラチ市内
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市内の路地裏、細い通りを荷台を押していた。
ろうけつ染め
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ろうけつ染めの実演販売。
何も付けていない所を色染めする。
車窓風景
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カラチの市内、車窓からの風景。
リキシャーと呼ばれるオート三輪タクシーが道路を自由奔放に行き交っている。
車窓風景
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車窓風景。
道路の中央に三本の剣を形取った、ティン・タルワールと呼ばれるモニュメントが建っている。
これはジンナーが大切にしていた標語である忠誠、秩序、団結を意味し、それを表現している。
モヘンジョダロ
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カラチを離れ、北へ飛行機で約1時間。
古代インダス文明の都市遺跡、モヘンジョダロがある。
写真は入り口の風景。
遺跡内部へと上がる階段がある。
モヘンジョダロ
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素焼きレンガを積み重ねて建っているのはストゥーパ。
ストゥーパとは仏舎利塔の事で、釈迦の遺骨や遺品を納めた仏教建築物。
モヘンジョダロ
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見る角度を変えてのストゥーパ風景。
モヘンジョダロが繁栄した時代は紀元前25世紀と、途方も無く古い。
仏教発祥は紀元前5世紀なので、このストゥーパ自体はインダス文明時代の物では無い。
モヘンジョダロ
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ストゥーパからのモヘンジョダロ遺跡の風景。
古代都市モヘンジョダロの遺跡は約2km四方に広がる、インダス文明の遺跡の中でも最も大きい、広大な遺跡。
だが、未調査、未発掘の地域も多く、全体は把握できていない。
モヘンジョダロ
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沐浴場、もしくは宗教施設と考えられている遺構。
壁にはタールなどの防水加工の跡が残っている。
この時代、既に公衆浴場は建てられており、水の確保のため貯水槽が完備されていた。
モヘンジョダロ
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この辺りは位の高い人々や宗教に携わっていた人々のエリア。
中央奥の建物はモヘンジョダロのシンボル的な建造物、仏教時代クシャーナ朝の仏舎利塔ストゥーパ。
モヘンジョダロ
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このストゥーパはインダス文明の時代よりかなり後期の物。
インダス時代の遺跡の上に建てられたストゥーパは15mもあり、発掘当時はこれを見てモヘンジョダロを仏教寺院と考えていた。
モヘンジョダロ
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モヘンジョダロ遺跡の特徴は、時代毎に何層にも積み重なった遺跡である点。
最も古い層から新しい層までは7層もある多層遺跡となっている。
しかし、まだまだ上層のみが発掘され、下層は手が付けられていない。
モヘンジョダロ
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インダス文字の書かれた看板。
近くからの出土品に書かれていた文字をそのまま写しただけで、意味は不明。
インダス文字の書かれた遺物自体少なく、類似する古代言語も無く、インダス文字は未だに解読されていない。
モヘンジョダロ
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遺跡に来ていた地元の子供達。
古代都市遺跡モヘンジョダロは、モヘンジョダロの遺跡群としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。
モヘンジョダロ
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モヘンジョダロでは上水道、下水道が発達しており、水はけを良くするために所々に排水溝が設置されていた。
長い間埋もれていたため、保存状態は良い。
モヘンジョダロ
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建物の材料となっているのは、古代では当たり前の日干しレンガでは無く、焼き固めている素焼きレンガ。
手間や燃料が必要な事、レンガのサイズが規格化されている事などから、リーダーを長とする社会制度ができていたと考えられている。
モヘンジョダロ
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この辺りは市街地のエリアで庶民や職人達が暮らしていた。
丸い煙突の様な塔は井戸。
当時は先端部分が地表で、発掘で掘り下げた結果、塔の様になった。
モヘンジョダロ
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地元の子供達。
モヘンジョダロとは地元の人達の言葉で「死の丘」の意味。
古来より人々にとっては死者の都として恐れられていた。
今と違い、昔は足を踏み入れる事さえタブーとされて来た。
モヘンジョダロ
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モヘンジョダロは約700年繁栄した後、紀元前18世紀に突然衰退する。正確な原因は判っていないが、インダス川の氾濫説や、この地方の乾燥・砂漠化などの説が出ている。筆者が訪れたのはGWだったが、確かに猛烈な暑さで、周囲は砂漠の様でした。
モヘンジョダロ
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一方で、超高度文明が栄えていて、古代に核戦争が起きたと言うSFの様な話がある。付近に火山も無いにもかかわらず、発掘された白骨には超高温で焼かれ、突如死んだ様な跡が残っていたらしい。また、高熱で溶けた砂や壺などが、黒いガラス状の石になって発掘されたと言う、ガラスになった町、があるらしい。この様な事は自然では発生せず、核実験跡地や原爆投下後の広島で見つかった、との事。
サッカル村
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ここはモヘンジョダロ近郊、インダス川沿いのサッカル村。
屋外で商売していた床屋さんの風景。
サッカル村
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モヘンジョダロ近郊サッカル村の風景。
熟れた瑞々しいスイカをワゴンに乗せて売っていた。
サッカル村
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サッカル村の金物屋さん。
農機具だろうか、刃物を研いでいた。
サッカル村
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サッカル村では牛車が活躍している。
サッカル村
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インダス川で水浴びする子供達。
暑い中、気持ちよさそうだ。
サッカル村
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モヘンジョダロ近郊の村。
川の岸辺に何かが動いていた。
良く見ると水牛だ。
ラホール
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次の訪問地はラホールの町。
バードシャーヒー・モスクへ向かいます。
写真は入口ゲート、城門の楼閣の風景。
バードシャーヒー・モスク
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ゲートをくぐりモスクの中庭へ。
通って来た城門の楼閣、門楼の風景。
深みのある赤茶色は赤砂岩の石でできている。
バードシャーヒー・モスク
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赤砂岩のモスクと大理石のドームのコントラストが美しいバードシャーヒー・モスク。
城門とモスクの間に広がる中庭がとても広い。
広場は一辺が160mもあり、10万ものイスラム教徒が礼拝できる。
バードシャーヒー・モスク
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モスクの中、礼拝堂への通路。
天井から壁一面に描かれた幾何学模様の装飾が美しい。
ラホール城
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バードシャーヒー・モスク門楼からの風景。
門楼の正面にはラホール城が建ち、写真奥はそのアーラムギーリー門。
その間に広がるのはハズーリ・バーグ庭園。
バードシャーヒー・モスク
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ラホール城のアーラムギーリー門の前から、振り返ってバードシャーヒー・モスクの風景。
17世紀ムガール帝国時代に建てられ、皇帝のモスクの意味を持つラホールのシンボル的なモスク。
マハラジャランジットシンの墓
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バードシャーヒー・モスクに隣接するマハラジャ・ランジットシンの霊廟。
アーラムギーリー門の前からの風景。
ラホール城
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ラホール城のアーラムギーリー門の風景。
とても巨大で威厳のある門構え。
これから中に入ります。
ラホール城
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アーラムギーリー門をくぐり城内へ。
ここはジャハンギール庭園。
中央の建物は謁見所。
ラホール城
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謁見所の内部。
右の少し出っ張りのあるテラスは謁見台。
ラホール城はムガール帝国の第3代目の皇帝、アクバル一世がラホールの町を都と定めた後、王宮として建築を始めた。
ラホール城
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城壁の上に登りました。
バルコニーからのラホール城壁の風景。
城壁の外には芝生の広場が続いている。
ラホール城
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城壁の上からの風景。
ラホール城は増築を繰り返した結果、単なる城では無く城塞の様になり、ラホール・フォートと呼ばれる。
ラホール城
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城壁の上からの風景。
左はバードシャーヒー・モスク、右はマハラジャ・ランジットシンの霊廟。
ラホール城
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城内に残る皇帝アクバル一世の宮殿。
ラホール城は後述するシャーリマール庭園と伴に、ラホールの城塞とシャーリマール庭園としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。
ラホール城
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城内には今は無い、いくつかの建物の基礎部だけが残る。
アクバル一世の後も、歴代の皇帝達によって増改築されて来た。
ラホール城
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裏側にある城壁にはシャー・ジャハーン門がある。
壁に開いた小さな窓はハト小屋。
ラホール城
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門と外壁には美しいタイル装飾が残っている。
植物をモチーフにした幾何学模様はイスラム美術様式のアラベスク。
ジャハーンギール廟
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次はジャハーンギール廟。
ラホールをムガール帝国の都としたアクバル一世の息子、第4代皇帝ジャハーンギールが眠る霊廟。
ここは入り口の門。
ジャハーンギール廟
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霊廟の敷地内には手入れの行き届いた庭園があり、水路も美しく配置されている。
ジャハーンギール廟
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白い大理石のミナレットと赤砂岩の霊廟。
丸屋根のドームが無いので平坦な印象を受ける。
ジャハーンギール廟
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振り返って、入り口の門の風景。
赤砂岩はパキスタン国内では取れず、隣のインドから運ばれたもの。
アーシフ・ハーン廟
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ムガール帝国第5代皇帝はシャー・ジャハーン。
彼の愛妃は有名なインド、タージ・マハルに眠るムムターズ・マハル。
この霊廟は朽ちてはいるが、ムムターズ・マハルの父アーシフ・ハーンの霊廟。
ワズィール・ハーン・モスク
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次はワズィール・ハーン・モスク。
入り口イーワーンの風景。
ワズィール・ハーンは皇帝シャー・ジャハーンのお抱えの医者。
ワルジルハーン・モスク
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中庭から入り口方向の風景。
モスク周囲には宿舎として使われた沢山の小部屋が取り囲んでいる。
ワルジルハーン・モスク
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モスクで見かけた女の子。
後は広場の地下にある、イスラム初期に活動したイスラム修道者スーフィーの墓。
シャーリマール庭園
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皇帝シャー・ジャハーンによる、皇族の保養所として造られた美しい庭園。水路や池、噴水など、水を用いて涼しさを与えてくれる。前述のラホール城と併せて、ラホールの城塞とシャーリマール庭園としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。
シャリマール庭園
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庭園内の池にあるテラスに並んで記念撮影の子供達。
地元の人達にとっても人気の場所なのだろう。
ラホールの街
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街中を散策。
様々な店舗が立ち並び、人も多く、ごちゃごちゃした通りだ。
ラホールの街
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夕刻が近づくラホールの街並み風景。
ラホールはインドとの国境まで20k程と国境にある街。
バザール
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イスラムの国々ではおなじみのバザール。
買い物をする訳では無いが、地元の人達の生活を感じるのに散策するのは楽しい。
バザール
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ここのバザールは装飾品のお店の隣にフルーツの店が有り、その隣に衣類の店がある。
全く統一が無い様だ。
バザール
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ブレスレットの専門店。
パキスタンではチューリヤーンと呼ぶのだそうだ。
一つでは無く、束ねて身に着ける。
バザール
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バザールのお店。
カラフルな装飾品が並ぶ。
バザール
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生地の専門店。
民族衣装はサルワール・カミーズと呼ばれるらしい。
バザール
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スイーツの立ち売りのじい様。
女の子が買っていました。
バザール
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絨毯、カーペット、マットのお店。
鉄道
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ラホールを離れ、ペシャワールの町へ向かう。
途中で見かけたカイバル鉄道の列車。
カイバルゲート
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寄り道して、アフガンとの国境にあるカイバル峠へ向かいます。
ここはカイバル峠への途中にあるカイバル・ゲート。
カイバル峠
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この辺りからはパキスタン政府の管轄が届かない治外法権自治区で、無法地帯となっている連邦直轄部族地域トライバル・エリア。
峠までは自治区の兵士が銃を携え同行する。
カイバル峠
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カイバル峠に到着。
峠にあった標識の前での筆者近影。
カイバル峠は古来シルクロードの時代から、その支線として東西交易の重要な交通路だった。
現在ではアジア・ハイウェイの一部になっている。
カイバル峠
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アフガニスタンのVISAを持たなければ、これ以上進めない最後の地点ミチニ・チェックポスト。
眼下には国境の町トルハムがあり、その先はアフガン。
カイバル峠
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カイバル峠からの眺望。
廃墟が残る。
周囲の岩山には数字が書かれていて、それを結んだ線が国境を意味している。
現在、外国人はカイバル峠はもちろん、トライバル・エリアに立ち入る事はできないのだそうだ。
カイバル峠
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写真を撮っていると、突然ライフルの銃声が轟いた。ビックリして振り返ると、ガイドさんがライフルを撃っている。ここでは同行の兵士にチップを払えば、誰でも銃を撃たせてくれる。写真はライフル銃を撃つグループのメンバー。女性だったので、兵士二人がかりでサポートしている。
カイバル峠
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イギリス植民地時代、イギリス軍が築いた要塞跡、シャーガイ・フォート。
現在はパキスタンの軍部が使用している。
カイバル峠
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かつてのイギリス領インド帝国軍はいくつかの部隊に分かれており、それぞれ固有の紋章エンブレムを持っていた。
カイバル峠は、時代により数々の軍部の管轄下に置かれ、その度に支配の証明として紋章を飾るようになった。
カイバル峠
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峠越えをするデコレーション・バス。
現在でもカイバル峠はパキスタンとアフガンとの間で、人と物との行き来がとても多い。
筆者が訪れた時もバスやトラックがやたらと峠越えをしていた。
密輸貿易も多いのだそうだ。
ペシャワール
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ここはペシャワールの町。
ガンダーラ地域の山岳仏教寺院遺跡観光の拠点となる町。
ペシャワール
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遺跡観光の前の予習としてペシャワール博物館を訪問。
ここは博物館入り口の風景。
ペシャワール博物館
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この後訪れる、ガンダーラ地域の山岳仏教寺院遺跡から出土した美術品が多くコレクションされている。
ペシャワール博物館
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1階入り口にあった、大きなガンダーラ地域の地図の絵。
ガンダーラは、アフガン東部からペシャワール、インダス川上流に掛けて存在した、古代の王国。
ペシャワール博物館
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二階から見た博物館内部の風景。
現在は州立の博物館として利用されているが、イギリス統治時代では宴会場だったらしい。
ペシャワール
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ペシャワールの町を散策。
街中で見かけたドライフルーツの露天商。
ペシャワール
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巨大なフライパンの上でミンチ状の肉を焼いてナンと共に食す、チャッパル・ケバブと呼ばれるハンバーグ料理。
ペシャワール
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ここは別の店。
チャッパルケバブは名物料理で、街中にいくつもあった。
筆者もレストランで頂いたが、とてもスパイスが効いている美味しい料理だった。
ペシャワール
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街中で見かけた女の子達。
シャイな子が多い。
ペシャワール
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この辺りは旧市街。
路地の先に見える塔はマハバット・ハーンモスクのミナレット。
ムガール帝国時代、ペシャワールの支配者マハバット・ハーンが建築した。
ペシャワール
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旧市街にあるバザール。
新鮮な野菜をたくさん置いていた。
ペシャワール
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旧市街のバザール。
帽子や衣類の店。
ペシャワール
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バザールのある、細く薄暗い路地の風景。
ペシャワール
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旧市街のバザール。
チャイの店。
チャイとはインド式の甘いミルクティーの事。
ペシャワール
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旧市街のバザール。
お菓子の店。
ペシャワール
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これはバラ・ヒッサール要塞。
ムガール帝国を建国した初代皇帝、バーブルによって建設された。
ガンダーラ
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ペシャワールを離れ北東45k程、山岳地帯へと向かう。
この辺りは山岳仏教寺院が残るガンダーラ地域。
タフテ・バヒー
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ここはタフテ・バヒー遺跡。
ガンダーラ山岳仏教寺院群の一つ。
遺構は山の中腹にあり、川や平地を見下ろす事ができる。
この事からタフテ・バヒー、玉座の泉と呼ばれている。
タフテ・バヒー
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ガンダーラ地域に仏教が伝わり、寺院が建ち始めたのは紀元前1世紀頃。
タフテ・バヒー寺院は2世紀頃、クシャーナ王朝の第四代皇帝カニシカ一世により建設された。
タフテ・バヒー
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遺跡内部は、天井部分は残っていないが、石積みの遺構はそこそこ残っている。
クシャーナ王朝は、北は中央ユーラシアから南は北インドにかけて存在した王国。
1世紀頃に王朝は成立し、200年間続いた。
タフテ・バヒー
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タフテ・バヒー遺跡は近郊の仏教寺院遺跡サリ・バロールと併せて、タフテ・バヒーの仏教遺跡群とサリ・バロールの近隣都市遺跡郡として、ユネスコ世界文化遺産に登録されている。
タフテ・バヒー
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山の高台から見下ろしたタフテ・バヒー遺跡全体の風景。
四角形の形が残る寺院の敷地。
タフテ・バヒー
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クシャーナ王朝はカニシカ王の時代に最も栄え、国土もネパールやベンガル地方にかけて広がった。
カニシカ王の時代の都はペシャワールだった。
マラカンド峠
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これからさらに北上し、スワート地域の町、サイドシャリフへ向かいます。
ここはマラカンド峠。
谷間から遠くまで見通せる。
マラカンド峠
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峠を上っていた、派手なデコレーション・トラックの前で記念写真。
サイドシャリフ
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ここはスワート博物館。
その入り口の風景。
小さいながらも、スワート渓谷遺跡から出土した仏教美術品を展示している。
サイドシャリフ
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サイドシャリフの町の風景。
衣類や民芸品を売る店。
スワート刺繍もお土産品として有名。
サイドシャリフ
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サイドシャリフの町で見かけた女の子達。
ブトカラ仏教遺跡
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ここはスワート渓谷遺跡の代表的な遺跡、ブトカラ仏教遺跡。
紀元前3世紀頃の遺跡で、マウリヤ王朝の第三代皇帝アショカ王の時代に建てられた。
ブトカラ仏教遺跡
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マウリヤ王朝はアショカ王の時代に最も栄え、インド亜大陸のほぼ全域を支配した。
支配地の最も北の地域がスワート地域。
大きな仏舎利塔ストゥーパが有名だが、ほぼ崩れてしまっている。
残っている丸い基礎は全てストゥーパが建っていた跡。
ブトカラ仏教遺跡
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うわ!崩れ落ちた遺物に犬が押しつぶされている!
よく見ると、暑い日差しから逃げるために、わずかな隙間に潜り込んでいた。
それ程、この辺りは暑かった。
ブトカラ仏教遺跡
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遺跡近くで出会った、地元の子供達。
サイドシャリフ
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再びサイドシャリフの街。
カバブーの店。
まだ若い男の子が調理していた。
スワート川
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スワート川に出ました。
ここからはスワート川に沿って北上します。
流れは速く、岸辺では川の水が渦巻いていた。
スワート川
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スワート川に架かるリフトの風景。
スワート川はカラコルム山脈からの流れを集めて水量も多い。
夏を迎えるこの時期は、氷河の雪解け水も多くなる。
スワート川