パキスタン・イスラム共和国(モヘンジョダロ)
モヘンジョダロ
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カラチを離れ、北へ飛行機で約1時間。
ここはモヘンジョダロ。
写真は入り口の風景。
遺跡内部へと上がる階段がある。
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モヘンジョダロは古代インダス文明の都市遺跡。
インダス文明の今に残る数ある遺跡の中でも、代表的で最大級の遺跡。
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ストゥーパの前で筆者近影。
素焼きレンガを積み重ねて建っている。
ストゥーパとは仏舎利塔の事で、釈迦の遺骨や遺品を納めた仏教建築物。
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見る角度を変えてのストゥーパ風景。
ストゥーパとは一般には仏塔と呼ばれる。
塔の中に安置されている仏舎利とは、仏教の開祖、お釈迦様が入滅し荼毘に付された遺骨の事。
モヘンジョダロ
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ストゥーパからのモヘンジョダロ遺跡の風景。
ストゥーパはミャンマーではパゴダ、中国では仏塔、日本では五重塔に代表される層塔の事。
モヘンジョダロ
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年代測定の結果、モヘンジョダロが繁栄した時代は紀元前25世紀と、途方も無く古い。
しかし、いつ頃都市が形作られ、興隆していったかなど、詳しい事は判っていない。
これはインダス文字が刻まれた遺物が出土しているが、インダス文字自体、現在でも未解読であるため。
モヘンジョダロ
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沐浴場、もしくは宗教施設と考えられている遺構。
壁にはタールなどの防水加工の跡が残っている。
この時代、既に公衆浴場は建てられており、水の確保のため貯水槽が完備されていた。
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インダス文明の興りは紀元前50世紀ごろの石器時代から青銅器時代まで遡って考えられているが、狭い意味ではモヘンジョダロなどの都市ができた紀元前27世紀ごろとされている。
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遺跡で見かけた地元の子どもたち。
インダス文明はインダス川流域周辺に栄えた文明で、かなりの広範囲に、パキスタンを初めインドやアフガニスタンにもインダス文明の痕跡、遺跡が発掘されている。
モヘンジョダロ
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前述した仏舎利塔ストゥーパが残るこの辺りは位の高い人々や宗教に携わっていた人々のエリア。
ストゥーパは仏教時代のクシャーナ朝に建てられた15mもの仏塔。
モヘンジョダロ
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インダス文明の遺跡ではパキスタンには他にハラッパーの都市遺跡があり、モヘンジョダロと並び広く知られている。
しかし多くのインダス文明の遺跡が残る辺りは現在砂漠になっている。
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このストゥーパはモヘンジョダロの写真などで必ず目にするシンボル的な建造物。
ただストゥーパは仏教建築物であり、仏教発祥は紀元前5世紀なので、ストゥーパ自体はインダス文明時代の物では無い。
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ストゥーパ辺りから見た遺跡周辺の風景。
ストゥーパはインダス文明の時代よりかなり後期の物にもかかわらず、遺跡の上に建てられたストゥーパを見て、発掘当時はモヘンジョダロを仏教寺院と考えていた。
モヘンジョダロ
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ストゥーパの建つ宗教施設エリアから少し離れ、市街地地区へと向かう。
古代都市モヘンジョダロの遺跡は約2km四方に広がる、インダス文明の遺跡の中でも特に大きい、広大な遺跡。
モヘンジョダロ
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モヘンジョダロの最も栄えた時代では4万人もの人が暮らしていたと考えられている。
だが、未調査、未発掘の地域も多く、全体は把握できていない。
モヘンジョダロ
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インダス文明など古代文明では世界四大文明が知られ、インダス以外にはエジプト文明、メソポタミア文明、中国文明となっている。
筆者が義務教育で学んだ頃は中国文明では無く黄河文明と習った記憶がある。
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市街地地区を真っ直ぐに貫く大通り。
古代都市遺跡モヘンジョダロは、モヘンジョダロの考古遺跡群としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。
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モヘンジョダロ遺跡の特徴は、時代毎に何層にも積み重なった遺跡である点。
最も古い層から新しい層までは7層もある多層遺跡となっている。
しかし、まだまだ上層のみが発掘され、下層は手が付けられていない。
モヘンジョダロ
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インダス文字の書かれた看板。
近くからの出土品に書かれていた文字をそのまま写しただけで、意味は不明。
インダス文字の書かれた遺物自体少なく、類似する古代言語も無く、インダス文字は未だに解読されていない。
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遺跡に来ていた地元の子供達。
遺跡近くには小さいながらも集落があり、飛行場も直線距離で1kほど北にある。
インダス川は南東2kに流れる。
最もモヘンジョダロが栄えていた頃のインダス川の流れは今とは違うのだろうけれど。
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モヘンジョダロでは上水道、下水道が発達しており、水はけを良くするために所々に排水溝が設置されていた。
長い間埋もれていたため、保存状態は良い。
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建物の材料となっているのは、古代では当たり前の日干しレンガでは無く、焼き固めている素焼きレンガ。
手間や燃料が必要な事、レンガのサイズが規格化されている事などから、リーダーを長とする社会制度ができていたと考えられている。
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この辺りは居住地エリアで庶民や職人達が暮らしていた。
丸い煙突の様な塔は井戸。
当時は先端部分が地表で、発掘で掘り下げた結果、塔の様になった。
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地元の子供達。
モヘンジョダロとは地元の人達の言葉で「死の丘」の意味。
古来より人々にとっては死者の都として恐れられていた。
今と違い、昔は足を踏み入れる事さえタブーとされて来た。
モヘンジョダロ
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モヘンジョダロは約700年繁栄した後、紀元前18世紀に突然衰退する。
正確な原因は判っていないが、インダス川の氾濫説や、この地方の気候変動による乾燥・砂漠化などの説が出ている。
筆者が訪れたのはGWだったが、確かに猛烈な暑さで、周囲は砂漠でした。
モヘンジョダロ
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モヘンジョダロはその一方で、超高度文明が栄えていて、古代に核戦争が起きたと言うSFの様な話がある。
付近に火山も無いにもかかわらず、発掘された白骨には超高温で焼かれ、突如死んだ様な跡が残っていたらしい。また、高熱で溶けた砂や壺などが、黒いガラス状の石になって発掘されたと言う、ガラスになった町、があるらしい。この様な事は自然では発生せず、核実験跡地や原爆投下後の広島で見つかった、との事。
サッカル村
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モヘンジョダロ観光の後はチョット寄り道。
ここはモヘンジョダロ近郊、インダス川沿いのサッカル村。
屋外で商売していた床屋さんの風景。
サッカル村
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サッカル村の風景。
熟れた瑞々しいスイカをワゴンに乗せて売っていた。
サッカル村
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サッカル村の金物屋さん。
農機具だろうか、刃物を研いでいた。
サッカル村
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お茶屋さんで筆者近影。
チャーエと呼ばれる茶屋でインド辺りではチャイと呼ばれる。
サッカル村
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サッカル村では牛車が活躍している。
サッカル村
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インダス川で水浴びする子供達。
暑い中、気持ちよさそうだ。
サッカル村