ペルー共和国(マチュピチュ)
マチュピチュへ
1/42
ここはペルーの鉄道、ペルー・レイルのクスコにあるサン・ペドロ駅。
これから列車でマチュピチュへ向かいます。
出発前の列車の風景。
駅の奥に聖ペテロ教会の塔が見える。
車窓からの風景
2/42
出発です。
マチュピチュ行きの列車をアウトバゴンと呼ぶ。
クスコとマチュピチュの間を3時間で走る。
車窓からの風景
3/42
車窓からの風景。
急斜面に建つ地元の家々。
赤茶色のレンガ造り。
車窓からの風景
4/42
車窓からの風景。
畑が広がる丘陵地帯の牧歌的な風景。
遠くに雪山が見える。
車窓からの風景
5/42
車窓からの風景。
ウルバンバ渓谷に沿って走る列車。
車窓からの風景
6/42
車窓からは雪を被った美しいアンデスの山々が見渡せる。
マチュピチュ到着
7/42
到着です。
ここはマチュピチュへの玄関口、プエンテ・ルイナス駅。
ホームの風景。
プエンテ・ルイナス駅
8/42
空になった客車にいた女性の車掌さん。
ここから先へも鉄道は続いており、列車は運行されていたが、筆者が訪れた翌年に豪雨により路線は流出、廃止された。
マチュピチュへ
9/42
マチュピチュの遺跡は山の上。
プエンテ・ルイナス駅からくねくねの登山道路をバスで。
途中の風景。
切りだった、深い山々が現れた。
マチュピチュへ
10/42
登山道路を登るバスの車窓風景。
眼下には先ほどのプエンテ・ルイナス駅が見える。
手前に流れる渓谷はウルバンバ川。
マチュピチュ
11/42
バスを降り、少し歩くとマチュピチュへの入り口がある。
この建物は農地管理人住居跡。
ここからのマチュピチュ全体の風景は定番となっている。
マチュピチュ
12/42
農地管理人住居跡からのマチュピチュの全景。
最もよく見るアングルにて筆者近影。
マチュピチュ
13/42
下って行く遺跡への道。
山すそから見えない事から空中都市と呼ばれるマチュピチュは、インカの言葉で老いた峰を意味する。
マチュピチュ
14/42
マチュピチュの全景。
この様な人跡未踏の山の上に、いつ頃から人が住み始めたのか、マチュピチュはいつ造られたのか、建設の正確な年代のはっきりした事は、よく判っていない。
マチュピチュ
15/42
石積みの建物も美しいマチュピチュ遺跡。
マチュピチュ建設に付いては、一説では西暦15世紀中頃とされている。
残る遺構はインカ帝国以前からの痕跡も残るが、保存状態の良い遺跡の大部分は15世紀以降のもの。
マチュピチュ
16/42
石畳の道が続くマチュピチュ遺跡。
人々の墓は100基以上見付かっているが、実際何人位の人が暮らしていたかは、はっきりと判っていない。
説では1000人以下と見なされている。
マチュピチュ
17/42
これらの様にマチュピチュの事が余り解明されていないのは、マチュピチュに付いての資料がとても少ない事による。
この時代、インカ帝国のインカ文明は文字を持たない文明だった。
マチュピチュ
18/42
文字を持たなかったインカ文明では、マチュピチュに付いての歴史や構造などの文献が残されなかった。
僅かに、スペイン人に侵略された後、クスコなどで先住民から口述筆記された、伝え話しが残るのみ。
マチュピチュ
19/42
写真中央の広場は神聖な広場と主神殿、右は3つの窓の神殿。
階段の上部にはインティワタナと呼ばれる日時計がある神殿。
太陽観測も行った。
マチュピチュ
20/42
三角形の石組みが残る居住区域。
神殿や居住址を含め建造物の総数は200にも及ぶ。
マチュピチュ
21/42
大広場と呼ばれる遺跡の最も低い場所にいたリャマ。
観光客も遺跡観光を一時忘れ、リャマ相手に記念撮影。
マチュピチュ
22/42
筆者もリャマとツーショット写真。
リャマは可愛くて触っても怒りませんが、気に入らないとペッと唾をかけられます。
マチュピチュ
23/42
ここの広場は神聖な広場。
筆者の後ろは主神殿、右手は3つの窓の神殿。
左奥の建物はマチュピチュの遺跡の中では最も高い場所にあるインティワタナ。
これから上ります。
マチュピチュ
24/42
インティワタナの風景。
一番奥には日時計と言われている石のモニュメントがある。
マチュピチュ
25/42
インティワタナから振り返ってのマチュピチュ遺跡風景。
中央が前述の神聖な広場と主神殿。
マチュピチュ
26/42
マチュピチュは山の上の遺跡だが、クスコより低地にあるため空気は濃く、クスコで高山病になった人もここでは楽になる。
マチュピチュ
27/42
16世紀中頃、マチュピチュの人々は突然都市を放棄し、どこかへ消えてしまう。
侵略者スペイン人もこの地は知らず、マチュピチュは破壊からまぬがれた。
マチュピチュ
28/42
遺跡内には今なお水が流れている水汲み場がいくつか残る。
山の尾根づたいに岩を削った水路が作られ、高さがある所ではサイフォンの原理を使って水を引き込んでいる。
現在から見ても驚異の技術力である。
マチュピチュ
29/42
中央は丸い形状が特徴の太陽の神殿。
これ程美しいカーブを持った形はマチュピチュでは他に見かけない、
左は王女の宮殿。
マチュピチュ
30/42
インカ文明には鉄が無かった。
にも関わらず、石垣や石造りの建造物を見ると、極めて精巧なパズルの様に、石と石との隙間は無く、土や小石などで隙間を埋めていない。
マチュピチュ
31/42
石を加工した場所を調べた所、その周辺からは石材よりも、より硬い石ころが多数見つかった。
この事から、石材を加工する道具として硬い石を用い、石造りの建物などを造ったと考えられている。
マチュピチュ
32/42
そもそも高い山の上に、どうやって重い石材を運んだのか。
写真の様な花崗岩がマチュピチュには、むき出しでいくつも有る。
実は石材は下から運んで来たのでは無く、ここの岩石を加工したのだ。
マチュピチュ
33/42
インカ帝国クスコ王朝第9代サパ・インカ=皇帝、パチャクテクの時代、首都はクスコに置かれており、王宮もあった。
パチャクテク王は副都心的な都市を建設するため、マチュピチュの街を造った、とされる。
マチュピチュ
34/42
遺跡の面積の半分は、斜面に広がるアンデネスと呼ばれる段々畑。
石段はインカ道となって、遠くクスコへと続いている。
マチュピチュ
35/42
マチュピチュの街に暮らしていた人々は、皇帝の使用人だったと考えられている。
人々は収穫された農作物を王に届けるため、また自分たちの生活のため、ジャガイモやトウモロコシなどを山の斜面いっぱい、アンデネスの段々畑に所狭しと作った。
マチュピチュ
36/42
勾配がきつい山の斜面に残る住居址とアンデネスの段々畑。
段々畑は平地が少なかった、マチュピチュでの生活における知恵の結晶。
マチュピチュ
37/42
1911年に4世紀ぶりに発見された時は草むした廃墟となってはいたが、インカ時代のままの手付かずの貴重な遺跡となった。
マチュピチュ遺跡は、マチュピチュの歴史保護区としてユネスコの自然と文化の複合遺産に登録されている。
ウルバンバ川
38/42
マチュピチュ観光を終えて登山道を下ります。
途中、ウルバンバ川に架かる橋からの風景。
くたびれて落ちそうな歩行者用吊り橋があった。
プエンテ・ルイナス駅
39/42
再びプエンテ・ルイナス駅に戻って来ました。
ここは駅にあった露店の民芸品屋さん。
プエンテ・ルイナス駅
40/42
駅でアクセサリーを売っていた地元の女の子。
現在は筆者が利用したペルー・レイル以外にインカ・レイルと言う鉄道会社もマチュピチュへの運行を運営している。
インカ・レイルではとても豪華なファーストクラスの座席もあるらしい。
プエンテ・ルイナス駅
41/42
駅から線路の風景。
プエンテ・ルイナス駅は現在は廃止になっていて、直線距離で2kほど北東にあるマチュピチュ駅が使われているらしい。
帰り
42/42
出発前のクスコ行きの列車と筆者近影。
2010年、集中豪雨による洪水や土砂崩れが発生し道路と鉄道が寸断され、日本人を含む多くの観光客がマチュピチュで取り残されたニュースは記憶に新しい。