ルーマニア(ブカレスト)
ドナウ川
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ルーマニアへは、ブルガリアからドナウ川を渡って、入国しました。
国境をなすドナウ川の車窓風景。
ドナウ川はドイツの黒い森、シュヴァルツヴァルトを源流とした国際河川。
国境
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ブルガリアの北側から陸路にて国境越え。
ルーマニアの入国ゲートの風景。
ブカレストの南へ向かいます。
バニーサ橋
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ブカレスト観光はブカレストの北側から始めます。
ここは市内を流れる、コレンティーナ川を一部せき止めた人造湖の、西のバネアサ湖と東のヘラストラウ湖を繋ぐ、バニーサ橋。
そのバニーサ橋からの車窓風景。
ミオリシャの噴水
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バニーサ橋から南西へ、鉄道の高架橋をくぐった先にあったのは、ミオリシャの噴水。
噴水のそばには記念碑があり、ミオリッツア、ミオリシャのバラッドと言われる、ルーマニアの民間伝承の詩が書かれている。
カーサ・プレセイ・リベレ
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ミオリシャの噴水から南西へ、ロータリーにでる。
ロータリーの北側に、いかにも旧ソビエトといった建物があった。
カーサ・プレセイ・リベレ、自由報道の館の意味を持つこの建物には、建築当時、新聞社や出版社などの報道機関が入っていた。
凱旋門
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カーサ・プレセイ・リベレ前のロータリーから南へ。
大きなロータリーの中央に門があった。
ブカレスト版の凱旋門で、オスマン帝国からの独立戦争の勝利を記念し、パリの凱旋門を模して建てた。
最初は木製だったが、何度か建て替えられ、現在は石造り。
ミレニアム十字架
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凱旋門のロータリーを東へ進むと、広いロータリーから成るシャルル・ド・ゴール広場がある。
その中心に立つモニュメントは、ミレニアム十字架。
青銅製の板に穴を開け、丸の光で十字を表現している。
現在は北にあるミハイⅠ世公園の、東の通りに移設されている。
空の英雄記念碑
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ミレニアム十字架から南へ。
この像は飛行機での戦争犠牲者のモニュメント
第一次大戦で戦った、空軍パイロットの英雄に捧げる記念碑。
ルーマニア農民博物館
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空の英雄記念碑から更に南へ、街の中心に入って来ました。
ここは多くの通りが交差する、勝利広場。
その北側に建つ、ルーマニアの芸術と伝統を展示する、農民博物館の建物風景。
アート・コレクション美術館
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勝利広場から南東へと延びる、ビクトリエイ通りを進む。
ここは国立美術館分館のアート・コレクション美術館。
ビクトリエイ通りは16世紀に整備された、市内で最も古い通りで、ドゥンボヴィツァ川まで続く。
革命広場
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見所が沢山ある、ビクトリエイ通りでの最大の観光スポット、革命広場。
まずここは、通りの東側に位置する旧共産党本部の建物。
1989年12月、独裁者チャウシェスクが失脚し、ルーマニア革命の舞台となった場所。
ユリウ・マニウの記念碑像
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旧共産党本部の前にあった、元首相ユリウ・マニウの像。
戦前、反ソ連運動を指揮し、戦後共産主義になった際に当政権により捕らえられ、終身刑で投獄された。
獄死したユリウ・マニウを、共産党独裁体制の犠牲者として記念碑像を建てた。
旧共産党本部
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革命広場に建つ、立派な石造りの旧共産党本部の建物。
革命後はルーマニア元老院となり、現在は内務・行政改革省庁などの政府合同庁舎となっている。
右のタワーは再生記念碑で、革命の犠牲者を供養する慰霊塔。
ブカレスト大学中央図書館
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旧共産党本部の北側に建つのは、ブカレスト大学中央図書館の建物。
19世紀末、ルーマニア国王カロルⅠ世による、カロルⅠ世図書館が前身となっている。
ルーマニア革命の混乱の際に火事が発生、多くの書籍が焼失した。
アテネ音楽堂
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大学図書館の、更に北側に建つのはアテネ音楽堂。
アテニウムとも呼ばれる、ルーマニアを代表するコンサートホールで、19世紀後半の建物。
国際音楽祭などが催されている。
共和国宮殿
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革命広場の、ビクトリエイ通りを挟んで、大学図書館の西側に建つ共和国宮殿。
旧王宮の建物で、かつて大統領府としても使われて来た。
共和国宮殿
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革命広場はルーマニア革命以前は、王宮が建っていた事から宮殿広場と呼ばれていたが、革命後に革命広場と改められた。
現在、共和国宮殿の南側の一部は国立美術館として、アートギャラリーになっている。
クレツレスク教会
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共和国宮殿の南側に建つ、クレツレスク教会。
この国独特の建築様式で建てられた、ルーマニア正教教会。
クレツレスク教会
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クレシュレスク教会とも呼ばれるクレツレスク教会はとても古く、ワラキア公国時代の18世紀初めに建てられた。
小さな教会だが、何度も修復され、守られて来た。
国立軍事サークル宮殿
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クレツレスク教会から南、ビクトリエイ通りがレジナ・エリサベタ通りと交差する辺り、ナショナル・ミリタリー・サークルと書かれた建物があった。
直訳すれば国際軍事倶楽部となるのだが、実際は国立軍事サークル宮殿と言う名の建物。
20世紀初めに建てられ、共産主義時代には陸軍中央庁舎だった。
現在は文化施設として一部、一般公開されている。
リプスカニ
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軍事サークル宮殿の南東に位置する地区は、リプスカニと呼ばれる旧市街地区。
見処がとても多く、観光客はまず訪れるスポット。
リプスカニの旧市街地区にて。
大学広場
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民族衣装をまとった青年団がいた。
ここはリプスカニ旧市街の北東にある大学広場。
国立ブカレスト大学が広場の北に建つ。
ロシア教会
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大学広場から南へ。
玉ねぎ頭が特徴的なロシア教会、聖ニコラス教会があった。
ロシア正教会の教会として、ロシア皇帝のニコライⅡ世が資金を提供し、第一次大戦前に建てられた。
ロシア革命の最中に焼失したが、戦後に再建された。
商工会議所
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聖ニコラス教会から南西へ進むと、四つ辻に出た。
辻の北に、とても古そうな重厚な建物があった。
これはブカレスト商工会議所の建物。
国立銀行
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ドアムネイ通りを挟み、商工会議所の南西に建つのは、ルーマニア国立銀行。
こちらは新館で真っ白の建物。
裏側のリプスカニ通りには、威風堂々とした旧館が建つ。
コンサート
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国立銀行北側の広場ではコンサートが開催される様で、リハーサルが行われていた。
どうやら、ブカレストでは9月にジョルジュ・エネスク国際音楽祭が2年毎に開催されるらしいので、ここもその会場の一つかもしれない。
観光馬車
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通りを観光用の馬車が、ひづめの音をたてながら走っている。
旧市街風景にとけ込んでいます。
日本の観光地では観光人力車が定番。
リプスカニ地区は中世から商人の街として、市内で最も重要な商業地区となっていた。
観光馬車
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リプスカニ旧市街を走る観光馬車。
中世の時代、リプスカニの通りには西ヨーロッパ製の、特にドイツのライプツィヒ製造の品が多く置かれていた。
ルーマニア語でライプツィヒをリプスカとなる事から、この地区の名前となった。
アーケード
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国立銀行旧館の西側に、オープンカフェが沢山でている、きれいな雰囲気のあるアーケードがあった。
マッカ・ヴィッラクロス・パサージュと呼ばれる通りだ。
アーケード
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マッカ・ヴィッラクロス・パサージュは19世紀後半に、旧市街とビクトリエイ通りを結ぶ計画で整備された。
当時、用地買収に中央に建っていたホテルが応じなかったため、アーケードは北と南の2本に分かれている。
女の子
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マッカ・ヴィッラクロス・パサージュのアーケードを西に抜けると、ビクトリエイ通りに出る。
通りで見かけた、おしゃまなブカレストの女の子。
経済連合宮殿
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ビクトリエイ通りを少し南に行くと、西側に建っていた建物。
透明なガラスドームを中央に持ち、左右対称、シンメトリーが美しい建物。
19世紀末に建てられた経済連合宮殿の建物で、現在はCEC貯蓄銀行となっている。
スタブロポレオス修道院
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CEC貯蓄銀行から東へ進むと、スタヴロポレオス修道院が見えてくる。
小ぶりの建物の修道院は東方正教会に属し、聖大天使ミカエルとガブリエルを守護聖人として祀る、修道女のための修道院。
ルーマニア独自様式が美しい、ブカレストでも最古の教会のひとつで、スタヴロポレオスとはギリシャ語の十字架の街、スタヴロポリスからきている。
商工会議所
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スタブロポレオス修道院から東へ、国立銀行旧館の南東角に出る。
ここから北にある、前述した商工会議所のドームが見渡せた。
お嬢さん
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リプスカニ旧市街で見かけた、ブカレストのお嬢さん方。
少しクラシックなコスチュームを着ているのは、やはり音楽祭に関わるイベントだろう。
聖デメトリウス教会
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旧市街のスムルダン通りを南へ。
スファントゥル・ドゥミトル通りとの三叉路辺りから、西側の風景。
このドームは聖ペテロと聖パウロを祀る、ルーマニア正教会の聖デメトリウス・ポシュタ教会。
15世紀末頃、この場所に古い教会が建っていた。
その跡地に建てられ、何度も再建、修復を重ねて来た。
スムルダン通り
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オープンカフェが並ぶ、スムルダン通りの風景。
旧市街の多くの通りは、石畳で舗装された歩行者専用の通りとなっている。
スムルダン通り
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スムルダン通りで見かけた女の子。
リプスカニ地区は共産主義時代に、再開発のため取り壊しの計画だったが難を逃れ、今では市内で最も観光客に人気のあるエリアとなった。
スムルダン通り
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スムルダン通りの建物風景。
スムルダン通りには古い建物が多く残り、修復、改装をして使われている。
この建物も改修工事を行って、現在はホテルになっている。
フランチェザ通り
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スムルダン通りを南東へ行き着くと、東西に走るフランチェザ通りにでる。
リプスカニ旧市街の、最も代表的な観光スポットだ。
観光客で埋め尽くされるフランチェザ通りの風景。
アクセサリーの店
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通りの両脇には露天商が並ぶ。
ここは装飾品、アクセサリーのお店。
骨董品の店
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ここは何やら、古めかしい骨董品が置かれていた。
ぶらぶらと、珍しい物を見ながらの通りの散策は、とても楽しい。
フランチェザ通り
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フランチェザ通りの風景。
フランチェザ通りは中世に整備された通りで、ブカレストで最も古い、歴史的な通り。
19世紀中頃にこの通りで大火が発生し、ほとんどが焼失した。
現在残る建物は19世紀後半以降のもの。
イコンの店
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ここはイコンのお店。
イコンとはイエス・キリストやキリスト教の聖人、使徒の姿、聖書の物語などを描いた聖画像の事で、教会に飾られている。
ルーマニアでも正教会や東方教会にとって重要な礼拝装飾。
教徒がいる家庭では必ず飾られる。
キュルテーシュ・カラーチ
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通りを歩いていると、美味しそうな香りが漂ってきた。
炭火でお菓子を焼いている。
これはキュルテーシュ・カラーチと言う、東欧の焼き菓子。
後にドイツ系民族ザクセン人が、ドイツへ戻った際に進化させたのがバウムクーヘン、とされている。
イースター・エッグ
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可愛らしい、綺麗に装飾されたタマゴが売られていた。
これはイースター・エッグ。
復活祭、イースターを祝うため、各家庭で飾る、装飾卵の事。
昔はゆで卵が使われたが、現在は中身を抜いた卵の殻や、卵を使わず、チョコレートやプラスチックを使う様だ。
遺跡
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フランチェザ通りの北側には遺跡が残る。
旧市街で最も古い地区で、ドラキュラのモデル、ヴラド3世が築いた王宮跡だ。
当時は宮殿、教会、官邸、厩舎、庭園などがあった。
遺跡
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遺跡の中へ入ってみる。
敷地内には浮き彫り細工、レリーフの岩板が無造作に置かれていた。
古い文化遺産なのにもったいない。
遺跡
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遺跡近くで見かけた女の子。
ヴラド3世、ヴラド・ツェペシュの中世の宮廷は、18世紀まで王宮として使用されていた、ブカレストの最初の王宮跡。
一部は修復され、博物館になっている。
遺跡
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ほぼ残骸となっている王宮跡に入ってみる。
18世紀中頃にブカレストを襲った大地震により、王宮は破壊された。
演劇
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王宮跡の屋上の一画で演劇が行なわれていた。
内容は判りませんが、見物客を群衆と見なしての民主化運動の様子かな。
演劇
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演劇の風景。
これも音楽祭に関わるイベントなのかな。
王宮が建つ地には、以前は14世紀中頃に要塞が建設されていた。
今、要塞は砦の跡などが一部残っているだけ。
クルテア・ヴェケ教会
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王宮跡の東側には古い教会、クルテア・ヴェケ教会が残る。
要塞跡越しの教会の風景。
これから参ります。
クルテア・ヴェケ教会
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クルテア・ヴェケ教会の風景。
クルテア・ヴェケとは旧王宮の事で、聖アントニオ教会とも呼ばれる、ルーマニア正教会の教会。
17世紀に建てられたが、王宮と同様に18世紀中頃の大地震により倒壊、現在の建物は再建されたもの。
クルテア・ヴェケ教会
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教会内部の聖堂風景。
聖アントニオ教会と呼ばれるのは、地震で倒壊し、火災で全焼した後、聖アントニオのイコンだけが無傷で焼け残った事から。
聖アントニオはパドヴァのアントニオと呼ばれ、13世紀ポルトガル、リスボンの聖人。
新聖ヨハネ教会
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フランチェザ通りを東に抜けると旧市街は終わり、ブラティアヌ大通りにでる。
大通りを挟み、東側に小さな教会があった。
新聖ヨハネ教会と言う、18世紀中頃に建てられた教会。
国連橋
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ビクトリエイ通りを南に突き当たると、ドゥンボヴィツァ川に出る。
川に架かる橋は国連橋。
橋の上から北側の風景。
古そうなビルはアドリアティカ・ビル。
控訴裁判所
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ドゥンボヴィツァ川の南に建つのはブカレスト控訴裁判所。
以前は国王カロルⅠ世が建てた司法宮殿だった。
国立統計研究所
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控訴裁判所から西へ、国連橋のたもとからナツィウニレ・ウニテ通りを進むと、国民の館の北東角に出る。
この建物は国立統計研究所で、ルーマニアの中央行政の専門機関。
主に国勢調査など、国家統計の収集を担当する。
イズヴォル橋
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国立統計研究所から北へ行くと、ドゥンボヴィツァ川のイズヴォル橋に出る。
左の塔のある建物はブランドラ劇場。
ルーマニア演劇において、代表的な舞台女優、ルチア・ストルザ=ブランドラが劇の監督を務めた劇場として知られている。
オペラ橋
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イズヴォル橋から西へ行くと、国立歌劇場の南にオペラ橋がある。
広場があり、4人肩車のパフォーマンスをしていた。
カロルⅠ世国立防衛大学
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オペラ橋から南西へ。
この建物はカロルⅠ世国立防衛大学。
19世紀後半に設立された高等戦争学校が前身。
安全保障、国防、軍人を育成する事を目的とした、高等教育機関。
カロルⅠ世国立防衛大学
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大学前の広場に建つ、祖国の英雄記念碑の像。
ルーマニアの、戦死した英雄を祀る記念碑。
記念碑の碑文には、古くからの伝統を受け継ぎ、祖国の自由と独立のため、独裁的権力と戦う不屈の戦士、ルーマニア軍に栄光あれ、と書かれている。
地下鉄
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きれいでモダンなブカレストの地下鉄。
記念に乗ってみました。
主要な所に行くには、とても便利な地下鉄。
国民の館へ
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次に訪れたのは、ブカレストで最大の観光スポット、国民の館。
北側には、国民の館を目立たせる様にと、チャウシェスクが住宅地を取り壊し、広大なイズヴォル公園を造った。
国民の館
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国民の館へは敷地の北側から入ります。
圧倒的な存在感で建つ、国民の館の外観風景。
国民の館
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独裁者チャウシェスクが残した、言わば負の遺産とも言える、巨大な宮殿跡。
当時、大統領で独裁者だったチャウシェスクが個人の宮殿として国家財産を注ぎ込んで建設した、途方も無い位に広大な建物。
国民の館
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階段を上がり、2階へ。
天井は、緩やかな弧を描くアーチ型になっており、照明は間接照明。
結構、薄暗かった。
国民の館
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通路の壁に掛けられている、巨大な装飾用織物タペストリー。
その前にはいくつかの胸像が置かれていた。
中央は15世紀モルダヴィア公国の大公、ステファン公の胸像。
オスマン帝国の侵略戦争に抵抗した。
国民の館
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館内に置かれた数々の絵画。
チャウシェスクの趣味で、贅沢三昧に収集されている美術品。
国民の館
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とても広い講演会場。
窓からの外光が入り、明るい部屋だ。
他にも巨大なホールが沢山ある。
国民の館
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正式には議事堂宮殿と呼び、現在は国会議事堂として、また会議場として使用している。
観光用資源としても重要な施設となっている。
アメリカ国防総省ペンタゴンに次いで世界第二位の大きさ、との事。
国民の館
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総部屋数はゆうに3千は超えると言う。
観光客が見学できる様に公開しているのは、その内のほんの一部の部屋。
だがそれだけでも、広くて豪華な内部を見て回るには一時間以上は必要。
国民の館からの市内風景
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国民の館からの市内風景。
2階の東側には巨大な石柱が立つバルコニーがあり、外に出る事ができる。
バルコニーからはブカレストの市内が一望できる。
国民の館からの市内風景
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バルコニーから真東方向の風景。
きれいな花壇の先にあるのは憲法広場。
憲法広場はコンサートや建国記念日のパレード会場となる。
国民の館からの市内風景
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憲法広場の東には、真っ直ぐに3kも延びる大通り、統一大通りがある。
途中の中央の池のある広場は統一広場、最も奥にはアルバ・ユリア広場がある。
国民の館からの市内風景
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この巨大な建物はルーマニア財務省の建物。
イズヴォル公園を含めて、国民の館の建設前のこの周辺には、教会や遺跡など、古い歴史的建造物が残る旧市街地であった。
チャウシェスクはそこの住民を追い出し、建物を破壊してこの巨大宮殿は建てられた。
国民の館
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2階から1階の大広間の風景。
入口の持ち物検査は厳重で、撮影も有料となっている。
内部を見学するには専属のガイドが付かなければできない。
筆者たちに付いたガイドさんは、たどたどしいが日本語のできる、ジョーク好きな方だったので、楽しい解説が聞けた。
国民の館
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1階へと降りる大階段。
これで国民の館の観光はおしまい。
チャウシェスクを倒したルーマニア革命の時には、国民の館はまだ未完成で、騒乱時には一旦建設は中止された。
新政府になってから建設が再開され、1997年に完成した。
統一広場
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国民の館から東へ、ここは統一広場。
3kも続く統一大通りのちょうど中間地点。
水をふんだんに使って、いくつもの噴水が上がっていた。
統一広場
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ルーマニアは旧共産圏の東欧と呼ばれる国。
第二次大戦後、王制は廃止され社会主義国家となる。
その後、ルーマニア共産党のチャウシェスクによる独裁体制へと突き進み、国民は貧困と自由の無い生活を強いられる事となる。
統一広場
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独裁政権の下、やがて国民の不満は大きくなり、民主化の動きが活発となってくる。
そしてついに1989年暮れ、民衆は蜂起する。
逃亡していたチャウシェスクは捕らえられ処刑された。
ルーマニア革命である。
統一広場
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統一広場の噴水越しの国民の館の風景。
憲法広場から統一広場を経由してアルバ・ユリア広場まで延びる統一大通りは、ルーマニア共産政権の威信を掛けて、パリのシャンゼリゼ通りに対抗する様に建設された。
建設当時は、社会主義の勝利大通り、と言う名前だった。
統一広場
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統一広場の風景。
統一広場や統一大通りも、国民の館同様にチャウシェスクの命により、多くの歴史的建造物を取り壊し、住民を追い出して建設された。
負の遺産の様な統一広場も、時代が移り、今では市民の憩いの場となっている。
大主教教会
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ここは大主教教会。
統一広場から南西へ、レジーナ・マリア通りを進むと南側にある。
写真は境内の中央に建つ、ルーマニア正教会総主教大聖堂。
総主教大聖堂
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総主教大聖堂は3つの多角柱状のドームが屋根に建つ、特徴的な建物。
17世紀、ワラキア公国時代に、君主の領土内に建てられた。
ブカレストの守護聖人、ディミトリチ・バサラボフの遺骸を安置する。
総主教大聖堂
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外壁が修復中だった大聖堂。
上部の壁には、いくつかの聖人の美しいモザイク画が飾られていた。
これはその一つ、キリストと聖母マリア、ヨハネが描かれている。
鐘楼
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境内の東側には鐘楼が建つ。
大主教教会が建つこの辺りは、ミトロポリエイ丘と呼ばれていて、ルーマニア正教の中心地となっている。
ルーマニア正教会総主教庁宮殿
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境内の南側に建つ、ルーマニア正教会総主教庁宮殿。
ルーマニア正教会は、ルーマニア人を信者とする、キリスト教の正教会の独立教会。
ここは総主教の館。
礼拝堂
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境内の西側に建つ礼拝堂。
元は修道院で、後年に改修られた。
ミトロポリエイ丘には祝祭日には大勢の信者が集まる。
トラム
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大主教教会からレジーナ・マリア通りを南西に行くと、ロータリーが公園になっている場所に着く。
ここはレジーナ・マリア・パークで、路面電車トラムが走っていた。
奥には国民の館が見える。
トラム
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ブカレスト市内を走るトラムの風景。
ヨーロッパの各都市には、この様な路面電車が多い。
ブカレストでは、より高規格なライトレールへの更新を計画している。
結婚式
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小さな教会で結婚式が行なわれていたので、少しのぞいてみました。
教会は特に貸し切りと言うわけでなく、礼拝も一般に行なわれていました。
チスミジュ公園
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所変わって、ここはチスミジュ公園。
国民の館の北側イズヴォル公園の、ドゥンボヴィツァ川を挟み、北側にある広々とした公園。
公園内には人口の湖、チスミジュ湖があり、ボート遊びが楽しめる。
チスミジュ公園
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こちらは足漕ぎのペダルボートに乗る家族。
公園内には、雰囲気の良いレストランがあるとの事で、夕刻も近付いて来たので、夕食を頂きに来ました。
花壇の風景
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公園内にある花壇の風景。
奥にはゲオルゲ・パヌのブロンズ像が建つ。
ゲオルゲ・パヌはルーマニア王国時代に活躍したジャーナリスト。
銅像のテーマは、アイデアの種をまく人。
散歩する市民
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市民の憩いの場となっているチスミジュ公園。
夕方の散歩に、多くの市民が訪れていた。
三輪車と女の子。
チスミジュ公園
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まだヨチヨチ歩きのベビーがいた。
チスミジュ公園はブカレストで最古と言われる公立庭園。
西にスキトゥ・マグレアヌ通り、南にレジーナ・エリザベタ通りが走り、とてもアクセスが良い。
似顔絵
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公園で似顔絵描きがいた。
似顔絵を描いてもらっていた少年。
カメラを向けると、少し恥ずかしそうでした。
新婚さん
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レストランで結婚披露パーティーが行われていた様だ。
記念撮影する新婚さん。
動画ではフォーマルな衣装を着た、パーティーに参加する方々を撮っています。
夕食
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とき卵とトマトとお肉のスープ。
シンプルだが、とても美味しかった。
夕食
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これはミティティと呼ばれる肉料理。
ミンチの肉団子の様だ。
つくねの炭火焼きと言ったところ。
パサパサではなく、むしろ弾力があって固い。
チスミジュ公園の夜景
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お腹も満たされた所で、少し公園内を散策。
ライトアップされて、美しいチスミジュ公園の夜景。
ブカレスト観光はこれでおしまい。
ブカレスト空港
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ルーマニアの首都、ブカレストへの玄関口、アンリ・コアンダ国際空港。
実際にあるのはブカレスト市ではなく、北に隣接するオトペニと言う町で、かつてはオトペニ空港と呼ばれていた。
市内にあったアウレル・ヴライク国際空港が手狭になったため、移設された。