シリア・アラブ共和国(パルミラ)
パルミラ
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ダマスカスの東210K、一面砂漠の中にナツメヤシが生い茂るオアシスがあり、ここに古代遺跡が残る。
シリアで最も有名な観光地にして、数ある世界遺産の中でも代表的存在、パルミラである。
ベル神殿
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古代都市遺跡パルミラの広漠たる敷地の中、まず東に位置するベル神殿に向かう。
写真は神殿の外壁と円柱回廊。
ベル神殿
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神殿中庭の風景。
左が本殿。
おびただしい数の円柱がガレキと成って一面に転がっていた。
ベル神殿
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ベル神殿全体は、一辺が200mを越える外壁に囲まれた広大な建物。
ベル神殿は古代都市遺跡パルミラの中で、最も大きい建造物。
ベル神殿
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ベル神殿外壁部に残る建造物。
歴史も古く、地下発掘調査によると紀元前22世紀から紀元前16世紀ごろの、青銅器時代の神殿跡が確認されている。
ベル神殿本殿
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ベル神殿の本殿の風景。
本殿はほぼ中央に位置し、境内は東西30m、南北55mあり、周囲をポルチコと呼ばれる列柱、コロネードが囲んでいる。
ベル神殿本殿
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神殿内に入り本殿へ行く正門。
本殿内へ入る門だが、入り口にしてはとても高い。
本殿内部
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本殿内部の風景。
正面に残るのは、神々を祀った神像安置所。
本殿内部
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本殿内部から見た入り口風景。
巨大な本殿の門と、その向こうには外壁部の正門が見える。
ベル神殿
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高くそびえたつ立柱。
西暦1世紀に中央にある本殿が建てられ、正門と周囲を囲む壁を持つ神殿となったのは西暦2世紀ごろ。
ベル神殿
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本殿と立柱の風景。
ベル神殿は、ビザンチン帝国時代にはキリスト教の教会に、その後アラブ人によってモスクとして使われていた。
ベル神殿
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ベル神殿の本殿はパルミラの中でも、最も保存状態の良い遺構。
ベル神殿
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ベル神殿の本殿には、北と南の両端には向かい合う様に神像安置所があり、パルミラの都市において信仰されていた三位神の像が安置されていた。
本殿裏側
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神殿の奥へ向かう。
本殿を裏側から見た風景。
ベル神殿
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アーチの有る通路では、当時神に捧げる生け贄の動物を運んだ。
この先に儀式の祭壇が有った。
ベル神殿
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本殿にある神像安置所はアディトンと呼ばれ、神殿の最も奥にある、聖職者以外は立ち入ってはならない聖域の事で、崇拝する神の像を納める所。
ベル神殿の本殿では三位神を祀る。
ベル神殿
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ベル神殿の三位神とはベル神、アグリボール神、ヤルヒボール神を指す。
ナツメヤシ
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ベル神殿の外側に広がるナツメヤシの林。
細かい葉っぱの木はオリーブ。
ここはパルミラ遺跡の有る町、タドモール。
地下水が湧き出るオアシスの町。
ベル神殿
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ベル神殿の最深部から、神殿全体を見た風景。
ベル神は、パルミラの都市に住んでいたセム族が崇拝し、約束の地カナン一帯で信仰されていた神で、恵みの雨の神。
ベルとはセム語で主を意味する。
ベル神殿
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アグリボール神は、パルミラ周辺の遊牧の民、ベドウィンの人たちの間で生まれた神で、月の神。
ベル神殿
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ヤルヒボール神は、古代のユダヤの民、アラム人たちの間で生まれた神で、太陽の神。
ベル神殿
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円柱回廊に立つ筆者。
ベル神殿はとても保存状態の良い石造神殿として知られていたが、シリア内戦時にイスラム国により遺跡の大部分は破壊された。
記念門
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ベル神殿を後にして西側に向かう。
これは記念門と呼ばれるアーチで、曲線が美しい。
列柱道路
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記念門は町の入り口で、ここから西側に古代都市パルミラの町並みが広がる。
町を貫くメインストリートの列柱道路が西へと続く。
列柱道路
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記念門はセウェルス帝の凱旋門とも呼ばれる。
ローマ帝国の皇帝、セプティミウス・セウェルスがこの地を統治していた3世紀に、パルティアとの戦いに勝利した記念として建てられた。
ナボー神殿
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列柱道路から振り返って記念門方向の風景。
右側に残るのはナボー神殿。
ナボーとは古代アッシリアやバビロニアでの神で、知識、芸術、書物を司る。
ラクダ
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客待ちをしていた観光用のラクダ。
記念門付近からラクダに乗って観光ができる。
ラクダ
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遺跡の中を行くラクダ。
砂漠の遺跡にはラクダが似合う。
列柱道路
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パルミラ遺跡と言えば、この美しく真っ直ぐに奥まで続く列柱道路だろう。
記念門から続く都市パルミラの大通りで、1k以上の長さ。
円形劇場
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列柱道路を西へ進んで行くと、ローマ式野外円形劇場がある。
観客席最上部から舞台を見下ろす。
ここの舞台は保存状態が良く、ほぼ完全な形で残っている。
現在でもフェスティバル等で実際に使用されていて、歌劇などが催される。
列柱道路
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パルミラの列柱道路。
円形劇場付近から入り口の記念門方面を。
当時、列柱は700本も立ち並んでいたが、ほとんどは倒れていて、現在100本弱が復元されている。
アラブ城
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円形劇場付近から西側の風景。
列柱道路の後ろの岩山にそびえる、アラブ城。
西側に山があり、その頂上に城が建っている。
アラブ城
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アラブ城の名を持つその城は、パルミラとは時代が違って十字軍時代の物。
当時、城塞の役割をしていたが、現在ではパルミラ全体や周辺を見渡せる絶好の観光地となっている。
アラブ城には後ほど登ります。
アゴラ
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円形劇場から列柱道路を外れ、直角に南に行くとアゴラと呼ばれる辺りに来る。
ここは集会場の跡で幅80m、奥行き70mほどの広さ。
この広場では商人達が様々な交易品を持ち寄って市場を開いていた。
アゴラ
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アゴラとは元々、古代ギリシア時代、都市国家ポリスの公共建造物の事で、広場を意味するギリシア語。
ローマ時代にはフォルムと呼ばれた。
アラブ城
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アゴラ辺りから見たアラブ城。
正式にはファクル・アル・ディン・アル・マアニ城と呼ばれ、最初の城は13世紀、スンナ派イスラム王朝のマムルーク朝によって建てられた。
現在の城は16世紀の物。
パルミラ
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アゴラを後に、パルミラの列柱道路を更に西へ。
列柱道路の突き当りから南へと、縦断列柱道路が続く。
葬祭殿
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列柱道路から縦断列柱道路への曲がり角辺りに残るのは葬祭殿。
霊廟で、入り口にポルチコと呼ばれる柱列のあるポーチ、柱廊玄関を備え、屋根は切妻式の神殿様式で建てられている。
ディオクレティアヌス城砦
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パルミラの列柱道路を西へ行き着く。
遺跡の最も奥ばった所、そこはディオクレティアヌス城砦と呼ばれる辺りに出た。
ここにはカストルムと呼ばれる軍事防衛拠点や野営地の建物やプレトリウムと呼ばれる本営司令部の建物などがあった。
アルラット寺院
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ディオクレティアヌス城砦の北側に残るのはアルラット寺院。
ジャーヒリーヤ時代に崇められていた女神アル・ラットを祀る。
女神アル・ラットは、出土したレリーフにはヤシの枝を持ち、ライオンを従えている姿で描かれている。
パルミラ
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この辺りは都市パルミラの街外れ、と言う雰囲気がする。
それにしても、人けがまるで無い。
この辺りまで来るとさすがに寂しい。
夕刻も近くだったせいか、我々一行以外の観光客はおらず、貸切状態。
パルミラ
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ディオクレティアヌス城砦付近から、パルミラ遺跡の風景。
この辺りはパルミラの住居跡との事。
今は石材がただ転がっているだけ。
パルミラ
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パルミラの地は、古代よりナツメヤシの産地であった。
ギリシア語でナツメヤシのことをパルマと言い、ヤシの木をパームと言う。
この事からパームの町、パルミュラと呼ばれた事が起源。
パルミラ
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パルミラ遺跡の魅力の一つが夕景。
夕陽に染まる遺跡の美しさは、世界で最も夕日が美しい、とも言われる。
古代シルクロードのキャラバン隊からはバラの街、とも呼ばれたパルミラ。
パルミラ
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入り口方面を望遠レンズで。
テトラピロンと呼ばれる四面門の一つが見える。
石柱4本一組にした四角の建物を4対、道の分岐点に建てたもの。
パルミラ
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広大なパルミラ遺跡内では羊が放牧されていた。
世界遺産の文化財なのに、良いのかな。
墓の谷
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パルミラ列柱道路の突き当たり、ディオクレティアヌス城砦を南へ下る。
そこは墓の谷と呼ばれる場所で、荒涼とした大地にいくつもの墓が残る。
墓の谷
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墓の谷に残る多くの墓は風化が激しく、ほとんど朽ちている。
パルミラの北から西方向に山があり、そこから流れ出す川が土砂を運び、広く扇状地を作った。
現在、それらの川はワジと呼ばれる水のない涸れ川となっているが、地下水脈が通っており、シリア砂漠の中央に位置しながら、地下水は豊富でオアシスとなっている。
墓の谷
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崩れた墳墓とロバ車。
シリア国内に残る多くの古代遺跡と同じく、パルミラの歴史も古い。
この地からは旧石器時代の遺物が発掘されている。
周囲にはテルと呼ばれる、埋もれて小高い丘になっている遺跡が残り、紀元前70世紀の新石器時代のテルから、人が定住し暮らしていた形跡が発見されている。
エラベール家の墓
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朽ちた墓がほとんどの中で、きれいに修復し保存されているのはエラベール家の墓。
エラベール家とは、パルミラの神殿建造に多額の寄付をした富豪の一族。
三兄弟の地下墳墓
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地下に行く階段が見える。
ここは三兄弟の地下墳墓で、墓の内壁に壁画が残っている。
エジプト、ルクソールに有る王家の谷を彷彿とさせる。
これから入ります。
墓の谷
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墓の谷で見かけた子供のロバ。
可愛そうに前足をヒモでくくられていた。
紀元前19世紀に古代パルミラの町は、くさび形文字のマリ文書で知られるマリ王朝の都市となっていた。
アラブ城へ
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パルミラ遺跡の観光を終え、記念門へと戻ります。
これからバスに乗り、アラブ城へ向かいます。
アラブ城は、それ自体古代の遺跡として一見の価値があるが、最も期待されるのが、ここからのパルミラ遺跡の景色。
パルミラ遺跡の全景を一望できる。
アラブ城からのパルミラ遺跡
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アラブ城へ到着。
ここからのパルミラ遺跡は最高の眺め。
右下は四面門、左は入り口の記念門。
中央奥にベル神殿が見える。
アラブ城からのパルミラ遺跡
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アラブ城から、左上に野外円形劇場、右にアゴラが見える。
古代パルミラの都市は、地理的にも西の地中海と東のメソポタミアを結ぶ、東西シルクロードの交易路の重要な要所にあり、キャラバン隊の中継地、隊商都市として繁栄した。
アラブ城からのパルミラ遺跡
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アゴラ方向の風景。
重要な交易路の隊商都市となったパルミラは、利権争いをめぐる幾たびかの攻防の地となったが、町は守られ繁栄して行く。
紀元前1世紀にはローマ帝国の支配下になる。
アラブ城からの町並み
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アラブ城からはパルミラ遺跡と並んで、現在の小さな町タドモールが見える。
西暦2世紀、シルクロード交易で栄えた、ヨルダンのペトラ遺跡に代表されるナバテア王国が、イスラム王朝アッバース朝に征服されて衰退して行く。
ナバテア王国のシルクロードの交易路や通商権はパルミラが取って代わり、最も繁栄した時代を迎える。
アラブ城からのパルミラ遺跡
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3世紀、ローマ帝国とメソポタミアを支配したササン朝ペルシアとの戦いが始まる。
パルミラを司令部としていたローマ帝国の総督が殺害された事を切っ掛けに、総督の妻ゼノビアがパルミラの実権を握り女王となり、パルミラ王国を建国する。
ゼノビアらがローマ帝国に反抗したのは、ローマ帝国の圧政に反発し、支配から解放しようとしたため。
夕景
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アラブ城からは、沈み行く美しい夕日が楽しめる。
パルミラ王国は南のボスラや東のドゥラ・エウロポス、そしてエジプトまでも属国とするほど、領域を広めて行った。
特にドゥラ・エウロポスはパルミラとの交通が盛んで、ドゥラ・エウロポスの遺跡ではパルミラ製の遺物も発見されている。
夕日
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遺跡に沈み行く夕日。
その後、ローマ帝国の侵攻を受け、ゼノビアは捕らえられ、パルミラ王国は陥落する。
メソポタミアの時代から栄え、紀元前1世紀から400年間栄華を極めたパルミラは廃墟となる。
料理
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パルミラでの食事は羊の料理。
パルミラ観光はこれでおしまい。
古代都市パルミラは、パルミラの遺跡、としてユネスコ世界文化遺産に登録されていたが、シリア内戦による荒廃で危機遺産へと移行されている。