シリア・アラブ共和国(クラック・デ・シュバリエ)
クラック・デ・シュバリエ
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ダマスカスの北140K、レバノンとの国境まで10Kの所、丘の上に十字軍の城、クラック・デ・シュバリエはある。
城の入り口付近の風景。
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城内部は、入り口から緩やかな上りの坂道となり、ボールトと呼ばれる、ローマ式のかまぼこ型アーチを持った天井が続く。
城の中の通路は折れ曲がり、複雑に入り組んでいる。
敵に侵入されにくく、兵器も使い難い造りになっている。
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天井には、所々に採光のための穴が開いている。
途中には上と下へと向かう、分かれ道があった。
クラック・デ・シュバリエ
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堅固な城壁を持った難攻不落の山城の、クラック・デ・シュバリエ。
騎士団の砦の名を持つこの城は、11世紀頃建築され12世紀に入り聖ヨハネ騎士団の所有となった。
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観光は朝一番に出かけたため、朝霧に見舞われた。
一風変わった雰囲気での、中世のお城の景色。
クラック・デ・シュバリエ
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城の中には礼拝堂もあり、ここは礼拝堂へ続くアーチ天井のホール。
元々この丘には小さな砦があった。
その砦を11世紀中頃に、アレッポを都とするシーア派イスラム王朝のミルダース朝が増築し、クルド人部隊に守らせた事が始まり。
クラック・デ・シュバリエ
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周囲は城壁に囲まれていて、見張りの塔や護衛の塔など、いくつもの塔が建つ。
11世紀末、廃墟となっていたクルド人の城塞を、第一次十字軍がエルサレム奪還の基地として再構築した。
クラック・デ・シュバリエ
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お城の中心部の、中庭辺りの風景。
12世紀中頃、城塞を所有していた十字軍国家のトリポリ伯国から聖ヨハネ騎士団へと移り、クラック・デ・シュバリエの原型に当たる構築を行った。
その後12世紀後期、十字軍に対抗するイスラム王朝のザンギー朝やアイユーブ朝の攻撃を受けるも死守した。
クラック・デ・シュバリエ
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13世紀に入ると現在のクラック・デ・シュバリエの城塞が完成し、トリポリ伯国を守っていた。
当時、二千人を越える兵士が城で暮らしていた。
敵に攻められた時、長期間立てこもって戦える様に、食料や水も大量に貯蔵していた。
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高台へ続く階段の建物。
十字軍時代に騎士団は二重の城壁にするなど、大規模に増築し要塞とした。
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この城は戦闘用として完成度が高かった。
十字軍遠征に来ていた中世ヨーロッパの王が、自国での築城の際にモデルにした程だった。
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13世紀後半、スンナ派イスラム王朝マムルーク朝の侵攻に遭い、城塞は奪われた。
しかし16世紀に入りオスマン帝国の支配下になると、城塞の機能は必要とされなくなり、17世紀には数十人の歩兵部隊が駐屯するだけとなった。
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塔から眺めたお城の風景。
第一次大戦後オスマン帝国は滅亡し、城塞は放置され、地元農民の住みかとなって行った。
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二重の城壁の間には一部、内堀が掘られていて今でも残っている。
有事の際には貯水池としても利用された。
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シリアが独立し、シリア・アラブ共和国となってからは、城塞は国が管理する文化財となった。
クラック・デ・シュバリエはシリア内戦時にイスラム国の拠点となり、戦闘による被害を数多く受けた。
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城の高台から、ふもとの町の風景。
町も小高い丘の斜面にあった。
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お城の近くで出会ったシリアの女の子。
クラック・デ・シュバリエは、クラック・デ・シュヴァリエとサラディン城、としてユネスコ世界文化遺産へ登録されたが、シリア内戦による被害から危機遺産へと移行された。