シリア・アラブ共和国(ドゥラ・エウロポス)
ドゥラ・エウロポス
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デリゾールの町からユーフラテス川に沿って80k程下流、古代都市遺跡ドゥラ・エウロポスが残っている。
写真は遺跡入り口近くにあったパルミラ門。
この門は、当時の都市への正門だった。
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パルミラ門を中心に、遺跡の西側に南北に連なる城壁が残る。
パルミラ門の南に残る、第二の門と呼ばれる門から遺跡内に入る。
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第二の門の内側から南方向の風景。
第二の門の直ぐ南にはキリスト教の教会があり、南に沿って城壁が続く。
最南にはワジと呼ばれる涸れ川の峡谷があり、自然の堀となっている。
ドゥラ・エウロポス
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第二の門の内側から北方向の風景。
この辺りはシナゴーグと呼ばれるユダヤ教の教会跡や、アドニスの神殿跡が残る。
北に沿って城壁が続き、最北にはベル神殿跡がある。
ドゥラ・エウロポス
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第二の門の東側、市街地跡の風景。
シナゴーグの発掘現場からは貴重な壁画が見つかっている。
それは初期キリスト教美術の最古の作品とされる、旧約聖書に登場する場面を描いたフレスコ画。
ドゥラ・エウロポス
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市街地跡を北東へ進むと公共の広場、アゴラに出る。
何やら、とても小さな円形劇場の様な建造物があった。
アゴラには人が集まる事から集会場も建てられるので、それかもしれない。
ドゥラ・エウロポス
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更に北東へ進むと、谷が現れ、沿って北へと進む。
古代都市ドゥラ・エウロポスは、紀元前4世紀のヘレニズム時代の初期、マケドニア王国の人々が入植し集落を作ったとされる。
これは遺跡の発掘から見つかった建造物の跡の時代は、ヘレニズム時代より以前の物は見つかっていない事による。
ドゥラ・エウロポス
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谷の東側には城塞、シタデルが築かれており、東側のストラテジオン、軍事戦略の官邸を守っていた。
紀元前3世紀、セレウコス朝を興した皇帝ニカトルがユーフラテス川流域を中心に現在のシリアを制服、領土内の各地に都市建設を行った。
その都市建設の中でも重要視され、中心とされたのはカトイキアと呼ばれる軍事植民地だった。
ドゥラ・エウロポス
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ここは城塞シタデルの城塞宮殿跡で、奥にはリュシアスの宮殿が残る。
当時、大規模都市ポリスの建設には莫大な費用や労働力が必要で、ポリスより簡易的なカトイキアの建設を行った。
カトイキアは征服地の武力統治を目的とし、多くは元々の町を整備して建設した。
数あるカトイキアにおいて、最も有名なカトイキアがここドゥラ・エウロポスであった。
ドゥラ・エウロポス
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谷を上ると東側に小高い丘、アクロポリスがある。
その東にはユーフラテス川が見える。
ドゥラ・エウロポスの都市は北西から南北に1k、北東から南西に700mの広さがあり、周囲を城壁で厳重に囲った城郭都市だった。
ドゥラ・エウロポス
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アクロポリスに残る住居や店舗の跡。
四角く、きれいに区画されている。
都市の北と南に涸れ川、ワジが削った深い谷が、東にはユーフラテスの急峻な崖があり、天然の掘り割りとなっている。
ドゥラ・エウロポス
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アクロポリスに建つストラテジオンの官邸。
ドゥラ・エウロポスのドゥラとは、古代バビロニアやアッシリアにあった地名で、集落を意味する。
エウロポスとは、セレウコス朝の皇帝ニカトルの故郷の名前で、同じ名前に付けられた。
ドゥラ・エウロポス
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堅固な城塞になっているストラテジオンのエリア。
紀元前2世紀、アルサケス朝パルティアがセレウコス朝支配から脱却、ドゥラ・エウロポスはパルティア下に入る。
この頃のドゥラ・エウロポスは軍事都市から交易都市へと変貌していった。
これは都市が、ユーフラテス川に沿って東西に延びる交易路の中間に位置しており、交易で繁栄したため。
ドゥラ・エウロポス
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アクロポリスから城塞、シタデル方面を振り返って。
西暦3世紀、ササン朝ペルシアによりパルティア王国は滅亡、その後ドゥラ・エウロポスはパルミラ帝国の支配下に入る。
ドゥラ・エウロポスはササン朝ペルシアによる征服や、モンゴル帝国の侵略に遭い、都市は滅び、廃墟となった。
ドゥラ・エウロポス
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ストラテジオンの城塞まで来ました。
城塞はユーフラテス川を見下ろす断崖の上に建てられている。
城塞の上からユーフラテス川を望む。
右手が下流。
ドゥラ・エウロポス
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城塞からユーフラテス川上流域を望む。
切り立った崖の上から悠々と流れる大河ユーフラテスの流れを見下ろしていると、遠くまでやって来たものだと、つくづく思ってしまった。
ドゥラ・エウロポス
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ユーフラテスの崖の上に残る城塞。
打ち捨てられた古代都市跡はシリア砂漠に埋もれ、その後ここには町は出来なかった。
火山灰に覆われ、保存状態の良いまま発掘されたイタリアのポンペイ遺跡の様に、ドゥラ・エウロポスも保存状態の良い、考古学的に極めて価値の高い遺跡となった。
ドゥラ・エウロポス
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ドゥラ・エウロポス遺跡に落ちる夕日。
ドゥラ・エウロポスに到着したのが夕刻で、城壁の向こうに落ちる夕日が美しかった。
ドゥラ・エウロポス
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城塞跡に立つと足がすくむ程の断崖絶壁の上。
築かれた城塞は長い時代、ユーフラテスの流れに削られて、残っているのはわずか。
ドゥラ・エウロポスは一時期、古代都市遺跡ドゥラ・エウロポスとして、その歴史的、考古学的価値から、ユネスコ世界遺産の暫定リストに登録されていた。
ドゥラ・エウロポス
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ドゥラ・エウロポスはシリア内戦時にイスラム国の支配地となり、遺跡の大部分は破壊され、資金を得るために多くの遺物は略奪された。
現在の遺跡はガレキの山と化している。