トルクメニスタン
アシュガバード
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ここは中央アジアの国、トルクメニスタン。
その首都であるアシュガバードの街。
街で見かけた民族衣装をまとった家族。
ニサ遺跡
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ここはニサ遺跡。
首都アシュガバードの近郊、南15kの砂漠に古代パルティア王国の都の遺跡が残る。
城塞都市ニサの遺跡である。
アシュガバードを拠点に観光します。
ニサ遺跡
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古代都市ニサは2つから構成されている。
一つはパルティア王の王宮や皇族の建造物群があった旧ニサ。
もう一つは市民が暮らした新ニサからなる。
両方とも城壁に囲まれており、互いに1.5kほど離れている。
今回は旧ニサを観光します。
ニサ遺跡
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入り口から旧ニサのエリアへは道が整備されている。
新ニサは現在の新ニサの町を挟み北西に位置するが、崩壊が進んでいて、デコボコの起伏がわずかな痕跡となっている。
古代パルティア王国は紀元前3世紀頃、中央アジアの遊牧民アルサケスⅠ世が興した王朝で、初代王アルサケスの名からアルサケス朝とも呼ばれる。
ニサ遺跡
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風化が進む日干し煉瓦の遺跡の南側にはコペット・ダグ山脈が壁の様に立つ。
遺跡の北側にはカラクム砂漠が広がる。
コペット・ダグ山脈沿いに地震帯があり、アシュガバードも大地震に見舞われた事がある。
ニサ遺跡
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草木が全く見られない、荒涼としたコペット・ダグ山脈。
コペット・ダグ山脈はイランと国境を接し、カスピ海の南東から続く全長650kもの山脈。
コペット・ダグとはトルクメン語でたくさんの山々の意味だそうだ。
ニサ遺跡
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アルサケスⅠ世に付いては正確な文献が少なく、あまり明らかになっていない。
一説には、イラン系遊牧騎馬民族スキタイの一派で中央アジアの草原に暮らすパルニ族の族長だった。
ニサ遺跡
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ニサ遺跡から望む、現在のニサの町。
ニサの遺跡はニサのパルティア時代の城塞群としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。
ニサ遺跡の王の倉庫と呼ばれる遺構からはヴィーナスの像や象牙の酒器が出土し、アシュガバードにある国立博物館で展示されている。
ニサ遺跡
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パルティアとは元々地名で、アレキサンダー大王の家臣セレウコスⅠ世のセレウコス朝の一つの州パルティア州を指していた。
セレウコス朝からパルティア州を任されていたアンドラゴラスが反乱を起こし、パルティアを独立させた。
そのアンドラゴラスを討ち、アルサケス朝パルティア王国を建国したのが初代アルサケスⅠ世となる。
ニサ遺跡
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パルティア王国は最盛期には西はトルコ、東はイランの領域まで支配していた。
シルクロードの十字路に位置しており、中国や地中海との交易により繁栄して行った。
ニサの街はパルティア王国の初期の首都。
ニサ遺跡
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パルティア王国は古代ローマ帝国との争いから、弱体化して行く。
西暦3世紀、最後の王ヴォロガセスⅥ世がササン朝ペルシアの初代皇帝アルダシールⅠ世に討たれ、パルティア王国は滅亡した。
ニサ遺跡
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王宮の巨大な柱。
4本の柱が組み合っている不思議な形をしている。
今は風化、寝食され低くなっているが、当時は大きな屋根を支えていた事だろう。
ニサ遺跡
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民衆が暮らしていた新ニサは、パルティア王国が滅んでからも、後の支配者たちに保護され、街として栄えていた。
モンゴル帝国が来襲し、新ニサは形を留めない程に破壊され、土に帰った。
アナウ遺跡
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一度アシュガバードに戻り、今度は東へ。
アシュガバードの南東8kほどにアナウの町があり、その近郊にアナウ遺跡が残る。
アナウ遺跡
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ペルシア語で新しい水の意味のアビナウから来ているアナウの町の名。
15世紀ごろのチムール朝時代にシルクロードの交易で栄え、日干し煉瓦造りのモスクなどが現在まで残っていたが、残念ながら1948年の大地震で建物はことごとく倒壊し、今は残骸が残るだけ。
アナウ遺跡
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遺跡から周辺に広がるブッシュの風景。
アナウはとても古い時代から集落があった事が発掘調査で判っている。
新石器時代と見られる小麦や土器が発掘され、その時代から人類が定住していた古代農耕集落跡と考えられている。
アナウ遺跡
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ブッシュの先にも崩れた遺構の一部が残る。
青銅器時代から鉄器時代にかけての彩文土器も発掘されている。
鉄道
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アシュガバードを基地に遺跡巡りを終え、東にあるメルブ遺跡観光の拠点、マリの街を目指す。
途中、見かけたトルクメニスタンの鉄道の風景。
現在の鉄道の基礎は19世紀、ロシア帝国時代に建設されたカスピ海横断鉄道の一部。
マリ駅
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マリに到着。
首都アシュガバードの東300kに位置する。
ここはトルクメニスタン鉄道のマリ駅。
丁度、ホテルが駅の前だったので、部屋の窓から列車の到着や出発の風景を見る事ができた。
マリ駅
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マリの街は、トルクメニスタンで4番目に大きな街。
カラクム砂漠にある古代シルクロードのオアシス都市で、シルクロードの時代にはメルブと呼ばれていた。
現在では古代都市遺跡メルブの観光拠点の待ちとなっている。
マリ駅
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旧ソ連崩壊後に国有化されたトルクメニスタン鉄道は、国内10路線を持つ鉄道。
周辺諸国ではタジキスタン、カザフスタン、ウズベキスタン、アフガニスタン、イランと接続しているが、直通列車は無い。
メルブ遺跡
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ここはマリの街の近郊、東へ30kほどに残る古代都市遺跡メルブ。
メルブ遺跡には、時代により都市が造り替えられ移動した跡の遺構が複数残る。
ここは初期の時代の都市遺構エルク・カラ。
エルク・カラ
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メルブ遺跡の内で、東方に位置するエルク・カラ。
メルブは古代イランのアケメネス朝の都市として紀元前6世紀頃から発展する。
マケドニア王朝時代にはマルギアナと呼ばれ、日干しレンガを積み重ねてドーナツ状の城壁を築いた。
その都市遺構がエルク・カラ。
エルク・カラ
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風化が進み、城壁部分は小高い丘の様になっている。
ふもとからは全体が判らないが、上に登ると円形の形が見て取れる。
右上のモスクはハマダーン・モスク。
エルク・カラ
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遺跡の周りには砂漠に強い、薄紫の花を付けたヒースが群生していた。
エルク・カラが都市だった頃は仏教の都市だった。
ハマダーン・モスク
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エルク・カラから西へ、スルタン・カラへの移動途中、車窓からのハマダーン・モスクの風景。
モスクは12世紀に建立されたものが一部残っている。
スルタン・カラ
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エルク・カラの西側、メルブ遺跡のスルタン・カラと言われる遺構。
11世紀頃のセルジュク朝の時代に、北東に4k、東西に2kの楕円形の城壁が築かれた。
これからスルタン・カラの内側に入ります。
スルタン・サンジャール廟
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スルタン・カラの城壁の中、ほぼ中央に建つ、サイコロの様な真四角の上にドーム状の屋根が乗る、この建物はスルタン・サンジャール廟。
スルタン・サンジャール廟の周りのスルタン・カラ内部は広い砂漠で、その中にいくつかの遺構が点在する。
スルタン・サンジャール廟
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後述する大キズ・カラからの風景。
高さが27mあったこの霊廟は遠くからも良く見え、カラクム砂漠を越えてやって来た、シルクロードのキャラバン達にとって、町への道しるべになっていた。
スルタン・サンジャール廟
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この霊廟の主、スルタン・サンジャールはイスラム王朝のセルジュク朝の王様。
12世紀中頃に亡くなった。
スルタンとはイスラムでの君主の事で、権力者を意味する。
スルタン・サンジャール廟
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壁の厚さが4mは超える。
この頑丈さがあったおかげで、メルブを滅ぼしたモンゴル帝国軍も、この霊廟は破壊できずに、またこの地方を襲った大地震にも耐え、現在まで比較的原形を残せている。
スルタン・サンジャール廟
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霊廟内へ入ります。
霊廟内の中央に石棺が安置されていた。
ただ石棺の中はカラッポで、遺体はモンゴル来襲時に何処かへ隠したと伝わっており、未だに不明。
キズ・カラ
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スルタン・サンジャール廟を離れ、西へ。
ここはスルタン・カラの城壁の外、南西の所に残るメルブ遺跡の代表的遺構、キズ・カラ。
遺跡への入り口の看板。
大キズ・カラ
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キズ・カラは大小の2つがあり、北に大キズ・カラ、南に小キズ・カラが残っていて、こちらは大キズ・カラ。
ササン朝ペルシア時代の城塞で、当時の権力者の宮殿跡と考えられている。
崩れた所から中へ入ります。
大キズ・カラ
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大キズ・カラの中の風景。
キズ・カラやスルタン・カラ、エルク・カラなど、多くの遺構の名前にカラが付いているが、このカラの意味は城塞。
キズ・カラは乙女の城塞と言う意味だそうだ。
大キズ・カラ
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この建物が乙女の城塞と呼ばれているかは不明。
諸説あり、権力者のハーレムだった、権力者に娘がいて娘のために建てた、モンゴル帝国軍に攻め入られた際に娘が自ら命を絶った、など。
乙女の塔や乙女の城など、各国各地に乙女が付く建造物は残るが、多くは悲しい歴史を持つ。
大キズ・カラ
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大キズ・カラにて筆者近影。
大キズ・カラの壁に空けられた大きな穴がいくつも残る。
かつてモンゴル帝国軍に攻め込まれ、破壊された跡だとの事。
大キズ・カラ
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キズ・カラ付近を通りがかったロバに乗った青年。
大キズ・カラの遺構は現地の人や観光客に踏み荒らされ荒廃が進み、保護のため現在は入れない様だ。
大キズ・カラ
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風化が進む大キズ・カラの土壁。
当時は日干しレンガが建材だったため雨風に弱く、文化意識を持ち修復を重ねないと、永く後年まで姿を残す事は難しい。
大キズ・カラ
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大キズ・カラは高さ20mもの大きな建造物だった。
当時は二階建てだったが、一階天井や屋根は崩落し、土に帰っている。
大キズ・カラ
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トルクメニスタンの様にスタンが付く国名の国は、中央アジアを中心に6カ国ある。
これらは古代ペルシア帝国の支配下にあった国で、スタンとはペルシア語で~の土地、の意味を持つ。
小キズ・カラ
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こちらは大キズ・カラから見た小キズ・カラの風景。
大キズ・カラから南へ200mほどに残る。
こちらも権力者の館だったと言われているが、今は原形を留めてはいない。
大キズ・カラ
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先程、大キズ・カラを通り抜けていったロバに乗った青年。
奥には前述したスルタン・サンジャール廟が見える。
大キズ・カラ
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何本もの柱状の外壁が特徴的で、かなり奇妙な印象を与える巨大な建造物大キズ・カラの外観風景。
メルブの遺跡は国立歴史文化公園古代メルブとして、ユネスコ世界文化遺産に登録されている。
大キズ・カラ
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古代都市メルブは時代ごとに、町を造り直して大きくなっていったため、さまよえる町と呼ばれた。
アケメネス朝で最初の都市メルブ、マケドニア朝~セレウコス朝でエルク・カラ、アルサケス朝~ササン朝でギャウル・カラ、セルジューク朝でスルタン・カラ、と移って行った。
大キズ・カラ
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古代都市メルブはイスラム王朝セルジューク朝時代に最も繁栄したが、13世紀モンゴル帝国軍に攻め込まれ、町は破壊され廃墟となり、メルブは滅亡した。
十数世紀にも及ぶ町の痕跡は、現在では中央アジア最大の遺跡として残る。
コペット・ダグ山脈の風景
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マリの街から南西へ、トルクメニスタンのサラフスから出国し、陸路イランのマシュハドへ向かいます。
途中、マリの近郊、カラクム砂漠で天然ガス田の有毒ガスを焼却するフレアスタックをいくつも見かけた。
イランへはコペット・ダグ山脈の峠越えの急峻な道を行きます。
出国スタンプ
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出国したサラフスでのトルクメニスタン出国スタンプ。