ウズベキスタン共和国(タシュケント)
タシュケント
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ここはウズベキスタンの首都、タシュケント。
バスの車窓から、タシュケント市内にあった市場の風景。
国立歴史博物館
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タシュケントの街にある、ウズベキスタン国立歴史博物館の正面の風景。
タシュケントはシルクロードのオアシス都市として古代より栄えた。
国立歴史博物館
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博物館入り口脇にあった噴水と池。
ここの博物館ではウズベキスタンの歴史や宗教、現在の自国産業に関するテーマなどを中心に、中央アジアの発展が展示されている。
国立歴史博物館
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ウズベキスタン国立歴史博物館の入り口、エントランスの壁に展示されている、巨大な絵画。
3階まで吹き抜けのエントランスは明るい。
国立歴史博物館
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ウズベキスタンがまだトルキスタンだった頃に、トルキスタン民俗学博物館として建設された、中央アジア諸国の中でも最も古く、大きい博物館。
ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場
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ここはオペラとバレエの専用劇場、ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場。
その正面の入り口風景。
劇場の名前にもなっているナヴォイとはアリシェル・ナヴォイの事で、ティムール朝時代の伝説的な文人の事で、アリシェル・ナヴォイ劇場とも呼ぶ。
ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場
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国立歴史博物館の直ぐ南側、ナヴォイ劇場の正面前の広場には噴水が置かれていた。
この劇場を建てたのは、第二次世界大戦後にソ連の捕虜となった日本兵達だ。
ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場
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劇場前の噴水の風景。
第二次大戦前、当時のソ連は革命30周年記念として1947年までに劇場完成を目指して、建築を進めていた。
ところが第二次大戦が勃発、建築は中断された。
ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場
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これから劇場の中へ入ります。
戦後、ソ連軍は日本兵を捕虜にし、500人近くをウズベクの労働施設へ送った。
捕虜達に与えられた労働は劇場の建築。
しかしその現場は過酷な労働、不衛生な寝床、粗末な食事、と言う劣悪な環境だった。
ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場
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劇場の内部は美しい装飾がなされており、大きな絵画も壁に描かれていた。
日本兵労働者たちの日々の動機付けは、支配や強要だけで建築するのではなく、日本人としての誇りを持って、この場所に世界一の劇場を造って見せよう。
戦争には敗れたが、その誇りだけは決して失わない、と言う事だった。
ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場
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観覧席の風景。劇場は地上3階、地下1階の構造で建てられており、1,400人が観覧できた。
2年の歳月が流れ、威風堂々とした美しい模様と繊細なる彫刻に飾られ、館内の細部の修飾までこだわり抜かれていたナヴォイ・オペラ・バレエ劇場は完成した。その頃には500人いた日本兵士の内79人が亡くなっていた。
ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場
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劇場の貴賓室の風景。
一つのエピソードが残る。
地元の子供達がパンや果物を差し入れてくれた。
日本兵労働者たちはそのお礼に、残りの資材で手作りのおもちゃを作ってお返しをした。
強制労働で疲弊していたにも関わらず、日本兵達は受けた恩に対して精一杯の感謝を伝えようとしたのだ。
ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場
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1916年、M8の大地震がこの地を襲う。
街の建物という建物は崩壊、辺り一面瓦礫の山となった。
一切の手抜きの無い、日本兵達が建てたこの劇場はビクともしなかった。
無傷の劇場は多くの市民たちの避難所となり、命を救った。
ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場
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1991年、ソ連崩壊後に独立した際、日本人の功績を称えるプレートを劇場脇に掲げる事になった。その際、初代ウズベキスタン大統領のイスラム・カリモフは、プレートに載せる文面について「彼らは恩人である。彼らの事を間違っても、決して捕虜などとは書くな。」と指示した。プレートには次の言葉が刻まれている。「1945年から1946年にかけて、極東から強制移住させられた数百人の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」劇場左側面の壁にプレートはある。
ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場
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強制労働で亡くなって行った日本兵達は、ウズベクの日本人墓地に眠っている。
故郷に帰る事のできなかった彼らのために、墓地の周りには多くの桜の木が植えられている。
ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場
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今でもウズベクの子供たちは親から、こう教えられると言う。
「日本人は戦いに敗れても、誇りを失う事無く、まじめに働いて立派な仕事をした。あなたも日本人の様になりなさい。」と。
戦後数十年、戦争を知らない人たちが多くなってきたが、戦争を戦った我らのお父さんやお爺さんたちは、とても尊敬されるべき人たちなのだ。
バラク・ハン・メドレッセ
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ここはバラク・ハン・メドレッセ。
ナヴォイ劇場から直線距離で北西4kほどにある。
メドレッセとはイスラムにおける神学校の事。
バラク・ハン・メドレッセ
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バラク・ハン・メドレッセの入り口イーワンの風景。
青とベージュで美しいモザイク模様が描かれている。
イーワンとは典型的なイスラム建築で、アーチ状の天井を持つ入り口ホールの事。
バラク・ハン・メドレッセ
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中に入ってみました。
16世紀にこの地を支配した王朝の君主、バラク・ハンにより建てられた。
入り口から入った中庭には花壇があり、美しくバラの花が咲いていました。
バラク・ハン・メドレッセ
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礼拝堂のドームの風景。
ドームの上にはイスラムのシンボルとなっている三日月、赤新月が飾られている。
バラク・ハン・メドレッセはウズベキスタンにおけるイスラム教本庁となっている。
ハスティ・イマーム・モスク
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バラク・ハン・メドレッセの近くにあったハスティ・イマーム・モスク。
市内の夜景
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夕刻、市内を走行。
これはアミール・ティムール博物館の外観。
建物の形はティムールが冠っていた帽子の形。
ティムールの歴史を展示している。
結婚式
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夜、街中でけたたましい楽器の音が。
着飾った人達が大勢いた。
結婚式の披露宴の様だ。
ホテルの夜景
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ホテルでのレストランからの夜景。
ライトアップされていたプールが綺麗だった。
アミール・ティムール広場
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ここはアミール・ティムール広場。
広場の中心にはティムールの騎馬像が建つ。
チンギス・ハンに滅ぼされたタシュケントを、ティムールが復興再建した事から街の英雄となっている。
ティムール広場
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広場内に置かれている噴水の風景。
ティムールは君主の称号であるハンを名乗らず、イスラムの指導者の意味であるアミールを称号として名乗った。
ティムール広場
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広場を中心に放射状に道が広がっている。
出発前に朝の散歩。
緑豊かな公園で、噴水とバラの花咲く花壇がさわやかに迎えてくれる。
昼食
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タシュケントを後に青の都サマルカンドへと向かう。
途中、ジザフの街の郊外のドライブインで一休み。
昼食は焼きたてのカバブー。
羊や鳥のスパイス焼きだが、とても美味しく、パンの一種のナンにも合い、何本でも頂けます。
ドライブイン周辺
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ドライブイン周辺の風景。
タシュケントの名は中央アジアに広く暮らすチュルクの民の言葉で、石の町、という意味だそうだ。
タシュケントは大都市で、ソビエト連邦崩壊後、旧ソ連邦の独立国家共同体各国とバルト三国を併せても、第4番目に大きな都市。
ティムールの門
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東西に山脈が走る、ここはジラヌティ峠。
その間を川と鉄道と道路が、ようやく通れるほどの岩山の切れ目がある。
ティムールの門と呼ばれる2つの岩山が門の様になっていて、実際に古代ギリシャのアレキサンダー大王の時代、ここに関所があったとの事。
鉄道
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ウズベキスタン鉄道の線路が見えた。
タシュケントとサマルカンドを結ぶ路線だ。
筆者が訪れた頃は無かったが、今は高速鉄道も開通したと言う。
動画では旅の途中で見かけた鉄道の風景を載せています。
バス故障
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突然、運転手がバスを停めた。
故障の様だ。
外に出てみると、タイヤを留めるボルトが壊れたみたいで、交換の修理をしていた。
サマルカンドに到着できるのは、いつになる事やら・・・トホホ。