ウズベキスタン共和国(サマルカンド)
サマルカンド
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ここは青の都と称されるサマルカンド。
筆者が宿泊したホテル・アフラシヤブの夜景。
サマルカンド
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ティムールが眠るグリ・アミール廟の風景。
サマルカンドはチンギス・ハーンに滅ぼされた後、ティムールによって復興再建されたシルクロードの古都。
グリ・アミール廟
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筆者が宿泊したホテルはグリ・アミール廟の近くにあり、部屋の窓からの風景。
右の渋い建物は霊の住み家という名のルハバード廟。
朝日に当たる廟の風景。
グリ・アミール廟
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グリ・アミール廟前に立つ筆者近影。
グリ・アミール廟はティムールとティムールの家族を祀る霊廟。
ティムールはモンゴル帝国の流れを汲む、中央アジアや古代ペルシャを支配したイスラム王朝の一つ、ティムール朝を興した君主。
グリ・アミール廟
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グリ・アミール廟の両端に建つ塔、ミナレット。
美しい幾何学的文様のアラベスクやアラビア文字の文字装飾、カリグラフィーがミナレットを彩っている。
グリ・アミール廟
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グリ・アミール廟のイーワン。
イーワンとはイスラム建築独特の天井がアーチ状になっている入り口ホールの建物の事。
グリ・アミール廟
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入り口ホールのイーワンをくぐり中へ。
これから霊廟の中へ入ります。
グリ・アミール廟
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グリ・アミール廟の霊廟の中へ入ってみました。
廟内部、内装のモザイク模様はとても美しいものだった。
グリ・アミール廟
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内部の大広間にある、墓石の様な物は実際の墓ではない。
地下室にある遺骨を納めている、本当の墓の位置を指している。
だが地下墳墓への入り口には鍵がかけられ、入る事ことはできない。
中央にある黒緑色のヒスイ軟玉で出来ているのが、ティムールの墓石。
グリ・アミール廟
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グリ・アミール廟が建つこの場所は神学校メドレッセが建っていた跡地で、グリ・アミール廟の原形の建物が最初に建て始められたのは14世紀末ごろ、ティムールの孫ムハンマド・スルタンによって。
そのムハンマド・スルタンはトルコ遠征中に戦死した。
グリ・アミール廟
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外観は青いドームが美しい、霊廟の天井、ドームの内側の風景。
ティムールはムハンマド・スルタンの後を引き継ぎ、孫を偲んで霊廟として建築し、15世紀初めに完成した。
グリ・アミール廟の霊廟に入ったのは皮肉にも、建築を始めたムハンマド・スルタン自身だった。
グリ・アミール廟
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霊廟内の建築には、下部の上に少しせり出して上部の構造を支えると言う、持ち送り構造を使ったイスラム建築の装飾技術、ムカルナスがたくさん使われている。
ムカルナス装飾は見た目には、少し尖った窪みがうろこ状に散りばめられている様に見える。
スイカ
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みずみずしいスイカ。
道沿いにお店を出していました。
グリ・アミール廟周りにはお土産屋の店がいくつか並ぶ。
グリ・アミール廟
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ホテルの部屋からのグリ・アミール廟の夜景。
右手前のルハバード廟には預言者ムハンマドの髪の毛が納められているらしい。
グリ・アミール廟の近くには、他にもアクサライ廟があり、近い位置関係にある霊廟群を構成している。
グリ・アミール廟
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ライトアップされた美しい夜景のグリ・アミール廟を見ようと、夕食後にもう一度出かけました。
グリ・アミール廟の建築様式はティムール建築と呼ばれる様式で建てられており、この様式は後年、ティムール朝の血を引くムガール帝国でのタージ・マハルを代表とするムガール建築へと受け継がれて行く。
グリ・アミール廟
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入り口イーワンの夜景。
グリ・アミール廟のアミールとは君主の事で、グリ・アミールとは君主の墓の意味になり、君主の霊廟は重要な建造物となり、これまでに何度も修復が行われて来ている。
そのグリ・アミール廟にティムール自身も葬られる事になるのだが、ティムールは生まれ故郷のシャフリサブスに葬られる事を生前願っていた。
グリ・アミール廟
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ティムールは実際に自分の廟を、自分の後継者として期待していたが、早世した次男のジャハーンギールが眠るシャフリサブスの霊廟近く、ティムールが夏季の別邸としていたアクサライ宮殿付近に建てていた。
だがティムールは遠征途中で亡くなり、シャフリサブスへの帰還が雪のため叶わず、突然の君主の死を秘密にし、王朝の混乱を防ぎたかった後継者たちの思惑もあり、シャフリサブスには埋葬されず、次男ジャハーンギールと共にグリ・アミール廟に葬られてしまい、ティムールの願いは叶えられなかった。
グリ・アミール廟
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夜だった事で、廟は閉められ、外観だけ見学して帰ろうとした。
その時、霊廟の裏口で地下墳墓入り口の門番が、入りたいか?と聞いて来たので、もちろんと答えてチップをあげた。
すると鉄扉のカギを開けて、地下へ行かせてくれた。
しかも、中は裸電球だけでとても暗かったので、懐中電灯まで貸してくれた。
昼間は行けなかった地下墳墓だったが、ラッキー!
グリ・アミール廟
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霊廟にはティムールとティムールの三男、ミーラーン・シャーや四男でティムール朝3代君主のシャー・ルフ、シャー・ルフの長男で第4代君主のウルグ・ベクと、ティムールの孫にあたるムハンマド・スルタンの墓がある。霊廟には他にも親族では無いが、ティムールの友人で、精神的教師でもあったサイード・バラカやティムール朝の重鎮も一緒に、併せて8名が埋葬されている。
子供達
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サマルカンドの人なつっこい子供達。
ビデオを向けると珍しそうに寄って来ました。
サマルカンドはウズベキスタンの初代大統領イスラム・カリモフの出身地。
子供達
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街で出会った子供達。
サマルカンドは古代シルクロードにおけるオアシス都市で、中央アジアから古代ペルシャを経てコーカサスへの交易ルート上にある。
子供達
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街で出会った子供達。
サマルカンドは首都タシュケントと高速鉄道で結ばれており、高速列車アフラシャブ号を利用すると約2時間で移動できる。
レギスタン広場
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ここはサマルカンド旧市街の中心地にあるレギスタン広場。
サマルカンド観光において最も有名で、代表的な所。
一年を通じて透き通る様な青空が続く事と、建造物に多用されている顔料、ラピスラズリから精製されるウルトラマリンの青から、古来よりサマルカンドは青の都と呼ばれて来た。
レギスタン広場
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レギスタン広場の特徴は、神学校メドレッセが三棟、広場の北東西を囲むように建っている事。
写真は広場正面、北側に建つティラカリ・メドレッセ。
レギスタン広場
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レギスタン広場の向かって右、東側にはシェル・ドル・メドレッセが建つ。
レギスタン広場のメドレッセはティムールの孫ウルグ・ベクの時代から建てられ、それ以前の広場は公共の広場やバザールとして機能していた。
シェル・ドル・メドレッセ
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シェル・ドル・メドレッセで特筆すべきは入り口アーチの上部、左右2か所に描かれているモザイク画。
トラの様なライオンが小鹿を捕えるモチーフになっている。
人の顔や動物などを描く事は偶像崇拝を禁じているイスラム教においてはタブーなので、このモザイク画はとても珍しい。
シェル・ドル・メドレッセ
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大帝国を築いたティムールは各地で捕虜にし、連れ帰った優秀な職人、芸術家や建築家を使い、ペルシャの文化を参考に美しいイスラム世界を造った。
ティラカリ・メドレッセ
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ウズベキスタンの魅力、特にここサマルカンドの魅力とは何か。
ここを訪れ、壮麗な建物群を眺めた誰をも魅了するのが、モスクや霊廟、メドレッセを覆う青を基調とした数々の色、極めて細やかで複雑な模様が組み合わされたタイル装飾だろう。
アラベスクやカリグラフィーで美しく飾られたティラカリ・メドレッセのイーワン。
ティラカリ・メドレッセ
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ティラカリ・メドレッセの青色のドーム。
エメラルドグリーンのドームは真っ青な青空と相まってとても美しく輝いている。
このドームの下に礼拝堂がある。
ティラカリ・メドレッセ
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ティラカリ・メドレッセの中へ。
中庭の風景。砂の場所
ここは神学校だがモスクとしての礼拝所でもある。
ティラカリ・メドレッセ
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17世紀に建てられたティラカリ・メドレッセ。
入り口から中庭に入って左手に前述の青色のドームがあり、その下にある礼拝堂へ向かった。
ティラカリ・メドレッセ
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ティラカリとは金箔を意味する言葉で、礼拝堂内の内装は金箔を多用して装飾されている。
ライトに照らされ、とてもきらびやかな礼拝堂の風景。
ティラカリ・メドレッセ
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イスラムの礼拝では聖地メッカに向かってお祈りを行う。
モスクにはメッカの方向、キブラを示す壁があり、そこに設置されている窪みをミフラーブと呼ぶ。
モスクの礼拝堂には例外無くミフラーブが設置されており、写真の窪みがミフラーブ。
ウルグ・ベク・メドレッセ
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レギスタン広場の向かって左、西側にはウルグ・ベク・メドレッセが建つ。
イーワンのアーチの上部には青い星をデザインしたタイル装飾がある。
ウルグ・ベク・メドレッセ
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ウルグ・ベク・メドレッセの中庭の風景。
中庭に面して開かれた大きなイーワン。
その左右に数多くある小部屋は、当時のイスラム神学生の寄宿舎跡。
ウルグ・ベク・メドレッセ
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現在の多くのメドレッセはショップになっていて、中庭では絨毯を、各小部屋では服や民芸品などを売っていた。
ビビハニム・モスク
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イスラム王朝ティムール朝を興したティムールは新たな都をサマルカンドに定め、力を誇示するため他に比べる物が無い、唯一無二の壮大なモスクの建築を思い立つ。
レギスタン広場から北東へ1kほどにある、王妃ビビハニムの名を持つモスク、ビビハニム・モスクだ。
中庭から西にあるイーワンの風景。
ビビハニム・モスク
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ビビハニム・モスクのドーム。
当時最大の巨大なモスクは14世紀末から5年ほどで完成したが、余りに性急な建築が祟り、完成直後から建材の崩落が起き、崩れていった。
このモスクには次第に訪れる礼拝者がいなくなり、寂れて行った。
ビビハニム・モスク
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19世紀末には大地震に見舞われ、ドームは崩れ、ミナレットの塔も折れた。
ビビハニム・モスクは廃墟と化したが、旧ソ連から独立後、支援を受けて復旧作業が進められている。
写真は修復されたミナレットの風景。
シャブ・バザール
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ここはシャブ・バザール。
サマルカンドで最大の市場。
穀物を扱うお店。
シヨブ・バザール
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塩でまぶされたピスタチオを置いていた。
ビビハニム・モスクの北に隣接するシヨブ・バザール。
歴史は古く、サマルカンドがティムール朝の首都と定められた当時から存在する。
シヨブ・バザール
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瑞々しいトマトを売る店と店番の少年。
シヨブ・バザールは何でも置いている。
中央アジアではドライフルーツが有名。
シヨブ・バザール
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シヨブ・バザールで見かけた、ウズベクの民族衣装をまとった地元の人たち。
シヨブ・バザールはとっても活気があって、散策するのはとても良い。
シヨブ・バザール
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シヨブ・バザールの入り口ゲート前でお店を広げるサマルカンドのお母さん方。
シヨブ・バザールの屋根のある敷地内だけで無く、周辺の路上でもたくさんの人が物を売っていた。
シヨブ・バザール
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シヨブ・バザールで見かけた、カラフルなウズベクの民族衣装を着た女の子。
シヨブ・バザール
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こちらでは路上で平たいパン、ナンを売っていた。
インド料理でおなじみのナンとは形は違うが、サマルカンドのナンは素朴な味でとても美味しい。
シヨブ・バザール
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カメラを向けると恥ずかしそうに、買ったナンで顔を隠すサマルカンドのお嬢さん。
シャーヒ・ズィンダ廟群
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ここはシャーヒ・ズィンダ廟群。
後述します旧サマルカンドの痕跡が残る、アフラシャブの丘の南にある霊廟群。
写真はティムールの孫、ウルグ・ベクが建てた入り口の門。
シャーヒ・ズィンダ廟群
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ウルグ・ベクの入り口の門を入ると、奥へと続く昇り階段がある。
これは天国への階段と呼ばれ、数えた段数が行き帰りとも同数だったら死後に天国へ行けるのだと言う。
シャーヒ・ズィンダ廟群
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シヨブ・バザールの東700mほどにあるシャーヒ・ズィンダ廟群は、巨大な墓地ネクロポリスで、最も多くの霊廟が建っていた頃は40もの建造物の集合体だった。
シャーヒ・ズィンダ廟群
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天国への階段の中段にある2つのドームを持ったウルジョイ・オイーム廟。
ティムールの乳母が祀られている。
シャーヒ・ズィンダ廟群
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ティムール朝勃興以前の11世紀からティムールの先祖や所縁の人の陵墓が建てられ、19世紀までのとても長い期間に渡っての建造物が残る。
シャーヒ・ズィンダ廟群
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ウルグ・ベクの入り口の門から北へと続く、この通りは死者の通り。
北の端まで200mに渡って霊廟が続く。
シャーヒ・ズィンダ廟群
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霊廟前でくつろぐ、ウズベクの帽子を被ったサマルカンドのじい様。
シャーヒ・ズィンダ廟群
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シャーヒ・ズィンダとは、生ける王、を意味する。
7世紀頃、この地の宗教がゾロアスター教だった頃、ムハンマドの従兄がイスラム教を布教するためにやって来た。
だが、異教徒だった事から殺害された。
シャーヒ・ズィンダ廟群
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イスラム教徒から、彼は永遠の命を得て、現在でも救い主として存在する、と言う言い伝えから、生ける王の伝説が生まれた。
現在ではこの地はイスラムの聖地となっている。
シャーヒ・ズィンダ廟群
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細密なモザイクが美しい青色のタイルで描かれている。
この青色の顔料は日本では瑠璃とも呼ばれるラピスラズリが原料。
古くからアフガニスタンで採れ、古代シルクロードを伝って東西へもたらされた。
ウルグ・ベク天文台
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シャーヒ・ズィンダ廟群から更に東へ、ウルグ・ベク天文台。
ティムール帝国の君主だったウルグ・ベクは学者としても高名で、天体観測に用いる六分儀が設置されたウルグ・ベク天文台を建て、星や太陽の観測を行った。
アフラシャブの丘
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ここは街の北東に、シャーヒ・ズィンダ廟群の北に広がる丘陵地、アフラシャブの丘。
かつて存在した古代都市、旧サマルカンドの街の跡。
今は風化が進み、遺構だけが朽ちた日干しレンガの山が起伏となって残るだけ。
アフラシャブの丘
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この辺りにはイラン系のソグド人が紀元前7世紀ごろから暮らし始めた。
紀元前5世紀頃には町となり、都市ソグディアナを形成していた。
アフラシャブの丘
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この辺りは小高い丘になっており、敵からの侵入を未然に見つけやすい事から、都市は丘の上が選ばれた。
シルクロードの時代には行き交う商人たちで賑わい、彼らが利用した隊商宿、キャラバンサライも沢山あった。
アフラシャブの丘
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当時の町は大きな4つの門を持つ城壁に囲まれ、舗装された道路があり、上水道設備も整った近代都市だった。
古代のイスラム王朝の一つ、サーマーン朝の屋敷があった事が発掘調査で明らかになった。
アフラシャブの丘
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アフラシャブの丘から南西にあるビビハニム・モスクの風景。
13世紀、中央アジアまで勢力を広げていたモンゴル帝国の侵攻に遭う。モンゴル軍の襲来によって、都市はことごとく破壊され、廃墟となり、都市の跡は遺跡としてアフラシャブの丘と呼ばれる事になる。
アフラシャブの丘
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夕日が沈む、アフラシャブの丘の風景。
モンゴル帝国の後、この地を治めたティムールによって新しくサマルカンドの街が造られる事になる。
ただ、ティムールは旧都市を再建する事はせず、アフラシャブの丘の南西に現在のサマルカンドが築かれ、ティムール朝時代には首都として繁栄する事になる。
アフラシアブ博物館
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アフラシアブの丘にあるアフラシアブ博物館、その建物入り口の風景。
ゾロアスター教の祭壇や陶器、コインなどの出土品が展示されていた。
アフラシアブ博物館
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展示品の中でも、目玉となるのがソグド人を描いたアフラシアブ壁画と呼ばれるフレスコ壁画。
展示ブースの四方の壁一面に、ラクダに乗った王族の人々などのフレスコ壁画が展示されている。
アフラシアブ博物館
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当時の住居跡。
発掘されたカマドや暖炉の跡が展示されている。
ティムールが造ったシルクロードのオアシス都市サマルカンドは、サマルカンド文化交差路としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。