ウズベキスタン共和国(ブハラ)
ブハラ
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ここはブハラ。
ウズベキスタンの中央辺り、サマルカンドから西へ220kほどにある街。
写真は街の中心に建つアルク城。
西側からの風景。
アルク城
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アルク城の城門の風景。
アルク城は、かつてこの地を支配していたイスラム王朝ブハラ・ハン国の城塞。
ブハラ・ハン国は16世紀初めから20世紀に掛けて栄えた王朝で、ブハラを首都とした。
アルク城
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城門の南、城壁の上にテラス状のスペースがあり、観光客がいた。
アルク城の西側に広場があり、テラスは王様が広場で行われたイベントを見るための場所だった。
アルク城
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アルク城の城門の側面の風景を北側から。
2つの塔を持ち上部にテラスがある城門は、城門自体がたくさんの部屋を持つ建造物となっており、ブハラ・ハン国時代には囚人を収容した監獄になっていた。
アルク城
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これから城門入り口からスロープになった通路を通り、城内へ入ります。
城内へは城門から回廊が続き、薄い暗いトンネルの様になっていた。
アルク城の城壁
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城門入り口への通路から南側の城壁の風景。
アルク城は王宮でもあり、要塞でもあったため、城の周囲をグルっと城壁が取り囲んでいる。
当時は一つの街が城壁に中に存在していた。
アルク城の城壁
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城壁を近くで見ると、煉瓦のブロックがすき間なく積み重ねられている事が判る。
木の丸太がたくさん刺さっている。
これはブロックを積み重ねる際の足場として使われた事と、城壁の強度を増す事を目的に使われた。
ジュマ・モスク
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城門から続く回廊を抜けた先にあったのはジュマ・モスク。
金曜モスクとも呼ばれるジュマ・モスクの特徴は、独特な入り口前のテラス。
これは柱を多用した高い天井を持つ、アイヴァンと呼ばれるイスラム建築様式で建てられている。
謁見の間
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ここは謁見の間。
ジュマ・モスクの南側に建つ、王が諸外国や属国からの使者と謁見する場。
写真は謁見の間の西に建つ入り口のイーワーン。
使者は去る時、王に背を向ける事のない様に後ずさりしなければ、命は無かったと言う。
謁見の間
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筆者が訪れた当時、謁見の間は修復工事中で、外された美しい彫刻の建材の一部が置かれていた。
アルク城は第一次大戦後に革命が起きた際に大部分は破壊されてしまった。
謁見の間
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謁見の間に置かれていたライオンの石像。
イスラムでは偶像を創ったり設置する事はタブーなのだが、イスラムに反する事で王は君主ハーンの威厳を誇示した様だ。
アルク城
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西側の城壁の上から見たジュマ・モスクの裏手の風景。
戦争で破壊されたアルク城だが、西側のジュマ・モスクや城門辺りはわずかに残り、修復された。
城壁に囲まれた東側は手付かずで、今は何も残っていない。
アルク城
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出口の城門へ薄暗い回廊を進みます。
出口に続く回廊はお土産屋が並ぶショッピング・アーケードの様になっていた。
アルク城
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お土産屋で見かけたウズベクの少女。
お店の看板娘。
バラハウズ・モスク
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ここはバラハウズ・モスク。
アルク城の城門から西へ直ぐにある。
このモスクの特徴はアルク城のジュマ・モスクでも見られた、たくさんの柱で天井を支えたイスラム建築様式のアイヴァン。
バラハウズ・モスク
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アイヴァン様式の美しいバラハウズ・モスク、柱は全てで20本ある。
18世紀初めごろに建てられた、ブハラ・ハン国の国王専用のモスク。
男の子
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近くで見かけたウズベクの男の子。
チャシュマ・アイユブ
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バラハウズ・モスクから西へ500mほどにある、トンガリ帽子の形のドームが珍しいチャシュマ・アイユブ。
中にはヨブの泉と呼ばれる泉が湧き、礼拝に行く人々が清めるのに使っている。
バザール
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通りではバザールが開かれており、野菜や果物など、色々な商品が置かれていた。
バザール
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こちらは絨毯・カーペットや壁飾りのタペストリーなどを置いている店。
バザール
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カラフルな女性用の衣装のお店。
バザール
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どの国でも、どの街でも、どこのバザールでも、バザールはとても賑やかだ。
イスマイール・サーマーニ廟
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ヨブの泉、チャシュマ・アイユブから南西へ200mほどにあるイスマイール・サーマーニ廟。
入口付近に置かれていた、ようこそサーマーニの庭へ、の看板。
イスマイール・サーマーニ廟
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ブハラを首都としたサーマーン朝の君主、イスマイール・サーマーニ。
このイスマイール・サーマーニ廟はイスマイールが父のために建てたとされる、サーマーン一族の霊廟。
イスマイール・サーマーニ廟
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9世紀終わりごろから建設は始まり、約50年掛けて完成した、1000年以上も前の、とても古い建造物。
13世紀、モンゴル帝国の襲来時には砂の中に埋もれていたため、破壊を免れ、保存状態が良い。
イスマイール・サーマーニ廟
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イスマイール・サーマーニ廟の名が付いているが、実際にイスマイールやイスマイールの父の霊廟かどうかは判っていない。
煉瓦を積み重ねて建てた霊廟、表面の美しい模様は煉瓦のデコボコさせた積み重ねだけで表現させている。
彫金
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イスマイール・サーマーニ廟の近くで見かけた、金属の皿の工芸。
小さなタガネとハンマーで金属の皿に彫刻をしている。
完成品は近くで即売していた。
老人
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イスマイール・サーマーニ廟で出会ったウズベクのおじいさん。
カラーン・モスク
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次に訪れたのはカラーン・モスク。
アルク城南側、東に伸びる通り、ホジャ・ヌラバード通りを東へ、アルク城から500mほどの所にある。
右はカラーン・モスクで、とても大きく、ブハラ最大のモスク。
左の高い塔はカラーン・ミナレット、高さは46mある。
カラーン・モスク
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カラーン・モスクは王や皇族のためのモスクでは無い。
広く大衆が礼拝できるモスクで、イスラムでは金曜日が礼拝の聖なる日と定められており、カラーン・モスクを金曜モスクとも呼ばれている。
カラーン・ミナレット
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現在の場所に初めてモスクが建てられたのは8世紀末頃で、それ以前は拝火教・ゾロアスター教の中央大聖堂が建っていた。
12世紀、カラハン朝時代に市民が集団で礼拝できる金曜モスクとしてカラーン・モスクが建てられた。
カラーン・ミナレット
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アップで見たカラーン・ミナレットの塔頂部の風景。
とても綺麗な表面の美しい模様。
積み重ねた煉瓦をデコボコさせてデザインを作った。
とても細かい部分は石灰岩や大理石を彫刻して作っている。
ティム・アブドラ・カーン・トレーディング・ドーム
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この建物はティム・アブドラ・カーン・トレーディング・ドームと呼ばれる市場。
カラーン・ミナレットの東側に建つ。
筆者が訪れた当時はカラーン・ミナレット前から見通せたが、現在は間に建物が建ち、直接見る事は出来ない様だ。
16世紀に建てられた古い市場で、衣類や生地、絨毯などを置いている。
ミリ・アラブ・メドレッセ
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カラーン・ミナレットから東へ、北側にミリ・アラブ・メドレッセの青いドームが見える。
ミリ・アラブ・メドレッセは西に建つカラーン・モスク、カラーン・ミナレットと併せて、ポイ・カリヤン・イスラム教複合施設となっている。
ポイ・カリヤンとは偉大な者の足元、を意味する。
カラーン・モスク
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ミリ・アラブ・メドレッセ南から、西側カラーン・モスクの風景。
カラーン・モスクのカラーンとは偉大な、の意味で、東西に130m、南北に80mもの敷地を持つ、ブハラ最大のモスク。
カラーン・ミナレットも同時期に建てられたが、高い塔に関わらず、地盤が緩かったため倒壊した。
2年ほど地盤を固める工事を施した後、カラーン・ミナレットは建てられた。
こちらのカラーンの意味は大きく高い、を意味しており高さは46メートルにもなる。
カラーン・ミナレット
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カラーン・ミナレットと左の建物はハナカ・アミール・アリムハン。
ハナカとは神学校の寄宿舎の事。
ブハラの街のどこからでも見る事ができるのはもちろん、郊外からも認識できるミナレットはブハラのシンボルとなっている。
ブハラを支配した王達にとっても、力の権威の象徴にもなっていた。
シルクロードの交易都市として栄えていたブハラではカラーン・ミナレットの塔頂に松明を燃やし、砂漠を渡って訪れるキャラバン隊への、灯台の様な目印とした。
カラーン・ミナレット
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13世紀、モンゴル帝国の襲来によりブハラの街は壊滅する。
カラーン・モスクも破壊されたが、チンギス・ハーンはカラーン・ミナレットだけは破壊を止めさせ、残した。
チンギス・ハーンは街に入って来た時、カラーン・ミナレットの大きさ、優美さに感銘を受け、破壊するには惜しいと思った、との事。
カラーン・モスクとカラーン・ミナレット
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再びカラーン・ミナレットの北側の通り、ホジャ・ヌラバード通りへ出る。
通りからの風景。
タキ
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ホジャ・ヌラバード通り東の方向にある、タキと呼ばれる商店街の丸屋根アーケードの建物。
今に残るカラーン・モスクは16世紀、ブハラ・ハン国時代に再建されたもの。
ホジャ・ヌラバード通り
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ホジャ・ヌラバード通りの商店街が続く風景。
カラーン・モスクの再建に当たっては当時巨大なモスクとして知られていた、ティムールが建てたサマルカンドのビビハニム・モスクよりも大きいモスクの建設を目論んでいたが、実際にはビビハニム・モスクよりも一回り小さい。
ホジャ・ヌラバード通り
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商店街でお店を開いていたブハラのおばあさん。
18世紀ごろからカラーン・ミナレットは公開処刑場となり、死刑囚は袋に入れられ、ミナレットの塔頂から地面に投げ落とされた。
20世紀ごろまでこの制度は続き、市民からは死の塔と呼ばれた。
カラーン・モスク
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ホジャ・ヌラバード通りからのカラーン・モスクの青いドームの風景。
カラーン・ミナレット、旧ソ連邦時代は弾薬庫など倉庫に使われ、戦時中は監視塔として使われた。
ティム・アブドラ・カーン・トレーディング・ドーム
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タキの前まで来ました。
タキから南側の風景。
カラーン・ミナレットの前から見通せた市場、ティム・アブドラ・カーン・トレーディング・ドームの全景。
ティム・アブドラ・カーン・トレーディング・ドーム
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ティム・アブドラ・カーン・トレーディング・ドームの風景。
カラーン・モスクはウズベキスタン独立後に修復され、モスクとして信者が礼拝に訪れる聖なる場所と共にブハラの観光名所となっている。
ウルグベク・メドレッセ
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タキの直ぐ東に2つのメドレッセが向かい合わせに建つ。
ホジャ・ヌラバード通りを挟んで北側に建つのはウルグベク・メドレッセ。
その中庭の風景。
ウルグベクはティムール朝の第4第の君主で、ティムールの孫に当たる。
ウルグベク・メドレッセ
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15世紀に建てられたウルグベク・メドレッセの中庭はお土産屋になっていて、絨毯やタペストリー、刺繍細工などを置いていた。
刺繍を実演するブハラのキレイなお嬢さん。
ウルグベク・メドレッセ
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ウルグベク・メドレッセの対面、南側に建つアブドゥールアジス・ハーン・メドレッセの入り口に腰かけて休んでいたブハラのじい様。
タキ・ザルガロン
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このドーム状の建物は、カラーン・モスク前からも見えたが、タキと呼ばれる丸屋根の市場の建物。
一般にはタキ・バザールと呼ばれる。
ウルグベク・メドレッセ前、ホジャ・ヌラバード通りからの風景。
左に見える青いドームはミリ・アラブ・メドレッセ。
アブドゥールアジス・ハーン・メドレッセ
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ウルグベク・メドレッセの直ぐ南に建つアブドゥールアジス・ハーン・メドレッセ。
その中庭の風景。
アブドゥールアジス・ハーン・メドレッセ
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アブドゥールアジス・ハーン・メドレッセの中庭はバザーの様になっていて、色々なお土産を売っていた。
こちらの民族楽器のお店では、店主が楽器を演奏していた。
弦楽器では、ギターの様に弦をつま弾くタイプとバイオリンの様に弓で擦るタイプを置いていた。
アブドゥールアジス・ハーン・メドレッセ
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メドレッセとはイスラムの神学校の事で、多くはイスラム教の礼拝堂モスクに併設されており、イスラム教複合施設となる場合が多い。
前述のポイ・カリヤン・イスラム教複合施設はその代表的な例。
アブドゥールアジス・ハーン・メドレッセ
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建てられたのは17世紀の中頃で、北にあるウルグベク・メドレッセより230年ほど後の建造物。
今は中庭にはいくつかのお土産屋が出ていて、絨毯やタペストリーなどを売っていた。
アブドゥールアジス・ハーン・メドレッセ
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何故かは判らないが、べそをかいていたブハラの男の子。
ブハラの旧市街はブハラ歴史地区としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。
タキ・テルズ・フュージョン
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タキ・ザルガロンから南へ、ハキカット通りを進む。
見えて来たこの丸ドームもタキの一つで、タキ・テルズ・フュージョンと呼ばれる。
ハキカット通り
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ハキカット通りは両側にお土産屋が並ぶ、賑やかな通り。
カンカンカンと金属を伸ばす鍛冶屋も出ていた。
ナイフなどを売っていた。
タキ・テルズ・フュージョン
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タキ・テルズ・フュージョンの中を散策。
絨毯のお店を開いていたお母さんと男の子。
タキとは丸いドーム屋根の意味で、通りの交差点に建てられている。
タキ・テルズ・フュージョン
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タキ・テルズ・フュージョンの南側出口。
ブハラには、古くは5つのタキがあったのだが、今は3つだけ残る。
マゴキ・アッタリ・モスク
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タキ・テルズ・フュージョンから南東へ直ぐ、100mほどの所、ムフタール・アンバー通りにあったマゴキ・アッタリ・モスク。
10世紀サーマーン朝時代に建てられたとされ、その後地中に埋まっていた。
20世紀に入り偶然発掘された。
そのため、地面より下にモスクは置かれている。
タキ・サラフォン
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マゴキ・アッタリ・モスクの東側から南へ100mほど行くとバコウディン・ナクシュバンディ通りに出る。
この通りとの交差点に3つ目のタキのタキ・サラフォンがある。
マゴキ・アッタリ・モスク側から南方向、タキ・サラフォンの風景。
タキ・サラフォン
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タキ・サラフォンの中を通り抜けて南側へ。
タキ・サラフォンから南へ延びるアラボン通りから、振り返って北側方向、タキ・サラフォンの風景。
ラビハウズ
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タキ・サラフォンからバコウディン・ナクシュバンディ通りを150mほど東へ行く。
木々に囲まれた、ラビハウズと言う池が見えて来た。
池の周辺には、イスラムのオープンカフェであるチャイハネやカバブーの焼きたてを食べさせる店が続く。
ラビハウズ
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ラビハウズの池のほとりで、お茶を飲みながらマッタリと過ごすブハラのじい様たち。
ハウズとは池の事で、17世紀ブハラ・ハン国時代に数多くの人口の池が造られた。
旧ソ連邦時代にほとんどが埋め立てられ、ブハラに現存するハウズは僅かに6つとなり、ラビハウズもその一つ。
ラビハウズ
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ラビハウズの池の周囲には神学校、メドレッセや寄宿舎、ハナカが建ち、ラビハウズ・イスラム教複合施設を構成している。
こちらはラビハウズの池を挟み、西側に建つ神学校の寄宿舎、ナディール・ディヴァンベギ・ハナカが建つ。
ナディール・ディヴァンベギ・ハナカ
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建てたのはブハラ・ハン国の大臣ナディール・ディヴァンベギで、ラビハウズの池も彼が造った。
これからハナカの中へ入ります。
ナディール・ディヴァンベギ・ハナカ
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ナディール・ディヴァンベギ・ハナカの中へ。
内部は、ただのお土産屋になっていた。
陶磁器や絵画、絨毯などを置いていた。
クカリダシュ・メドレッセ
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こちらはラビハウズの池の北東に建つクカリダシュ・メドレッセ。
ブハラ・ハン国の大臣クカリダシュが建てたメドレッセで、16世紀中頃に建てられた。
ラビハウズ
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クカリダシュ・メドレッセの南東に建つナディール・ディヴァンベギ・メドレッセ。
ナディール・ディヴァンベギは当時、シルクロードを行き交う隊商が休めるキャラバン・サライを建てるつもりだったが、途中で神学校、メドレッセになった。
偶像崇拝禁止のイスラム建築では珍しく、人の顔の太陽や生き物の不死鳥などが描かれている。
民族舞踊
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さて、ブハラでの最後の観光は、ブハラ地方の伝統の踊りを鑑賞します。
昼下がり、カラフルな民族衣装を着た美人のお嬢さん達による華麗な舞です。
ここから少しブハラに付いて。
ブハラの街は歴史が古く、砂漠地帯の中のオアシス都市として少なくとも紀元前5世紀頃には、現在のアルク城辺りに城壁の都市が築かれていた。
これはアルク城の発掘調査時に地面の下に古い時代の遺構が発見された事による。
民族舞踊
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城塞の意味を持つアルク、現在のアルク城の基礎は、古代に建てられた城塞の上に造られた。
当時はイラン系のソグド人が暮らす都市国家ソグディアナの主要都市の一つだった。
民族舞踊
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古代シルクロードの中継都市として古代ブハラは栄えて行く。
都市国家ソグディアナはゾロアスター教や仏教を信仰し、今に残るブハラの地名も仏教の僧院を意味するビハーラから来ている。
中央アジアの東西交易で、東はアフラシアブ、現サマルカンドから西はウルゲンチ、ヒヴァを結ぶ要衝に位置していた。
民族舞踊
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踊りのBGMは民族楽器を演奏し歌う、男性陣による生演奏。
8世紀、イスラム帝国ウマイヤ朝に征服され、イスラム化されたブハラでは、仏教寺院は全て無くなった。
9世紀後半、サーマーン朝が興り、イスマーイール・サーマーニー統治の下、ブハラは100年首都として繁栄する。
現在ブハラに残る遺跡や遺構などはこの時代以降の物がほとんど。
民族舞踊
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11世紀、サーマーン朝はカラハン朝により倒され、ブハラは首都から外れる。
13世紀、モンゴル帝国の襲来によりブハラは荒廃する。
15世紀ティムール朝支配を経て16世紀ブハラ・ハン国シャイバーン朝がブハラを首都とした。
その後もブハラ・ハン国はジャーン朝、マンギト朝と20世紀まで続き、各王朝はブハラを首都とした。
民族舞踊
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第一次大戦後、ロシア革命に刺激を受けた労働者の赤軍が蜂起し、ブハラで革命が成功。
ブハラ・ハン国は滅亡し、ブハラ人民ソビエト共和国が誕生する。
ブハラ人民ソビエト共和国も、直ぐにウズベク・ソビエト社会主義共和国に吸収され、ソビエト連邦の1つとなる。
ソ連邦崩壊に伴ってウズベキスタン共和国が独立し、ブハラはウズベキスタンの主要な都市となった。
キジルクム砂漠
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ブハラの観光はおしまい。
これから世界遺産イチャン・カラのあるヒヴァへ向かいます。
車窓からはキジルクム砂漠へ落ちる夕日が綺麗だった。